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タチバナ製麺所

東上野にタチバナ製麺所という製麺業者がある。初めて知ったのは数年前になる。その後、周辺で焼きそばを食べ歩くうち、浅草でソース焼きそばを名物とする老舗の多くが、ここから焼きそば用の麺を仕入れていることを知った。

東上野 タチバナ製麺所

現在の代表取締役は嶺村武さん。氏の御母堂の叔父君が、昭和27年に稲荷町で創業したのがタチバナ製麺所の始まりだ。かつては吉祥寺や新宿にも工場があったそうだ。現在普及しているアルミ鍋入りのうどんは、その創業者が開発したという。

タチバナ製麺所の麺トレイ

タチバナ製麺所が製造するのはそば・うどん・中華麺、そして焼きそば用の蒸し麺など。現在は業務用の製麺がメインで、スーパーなど小売業への流通はない。ただし工場で直売しているので、訪問すれば直接購入できる。出入り口には、最新の商品一覧も張り出されている。

2022年8月現在の商品一覧

ここで注目したいのが、商品リストの左下に記載された、焼きそば用の「二度蒸しの黒い麺」だ。「ソース焼きそばは大正時代に浅草周辺で生まれた」というのが私の持論だが、その浅草周辺に現存する老舗の多くが、黒い(あるいは茶色い)二度蒸し麺(深蒸し麺)を使っている。その麺の貴重な供給元の一つが、この製麺所なのだ。

二度蒸しの黒い麺

二度蒸し麺は麺を蒸すための設備が必要で製造工程も複雑なため、請け負える製麺所は限られている。かつては浅草周辺にも業者が複数あったはずだが、時代を経るに連れて減ってしまった。浅草の伝統的なソース焼きそばに二度蒸し麺は不可欠な存在だ。その卸元がなくなれば提供できなくなる。大正から昭和・平成を経て令和に伝えられた、貴重な浅草の食文化を影から支えているのが、ここタチバナ製麺所というわけだ。

焼きそばの歴史を研究する私にとって、蒸し麺への好奇心は並々ならぬ物がある。電子書籍『焼きそばの歴史』に詳述したが、明治時代に伝わった中国料理のヤキソバと、日本で生まれたソース焼きそばは全く異なる料理だ。その両者を繋ぐ、料理名以外の唯一の要素が他ならぬ蒸し麺であり、広東料理と浅草で使われている二度蒸し麺なのだ。

「唐突なお願いですけど、二度蒸し麺を作るところを見学させてもらえませんか?」

好奇心が抑えきれず、ある日の訪問でそのような不躾なお願いをしたところ、思いがけずご快諾いただき、日程を調整して後日取材に訪れることになった。普段の食べ歩きとは異なる、事前に依頼しての取材のおかげで、二度蒸しの工程をひとつひとつ懇切丁寧に説明していただくという、とても貴重な機会を得ることができた。嶺村代表へ心からの感謝を申し上げたい。

以下、タチバナ製麺所の二度蒸し麺の大まかな作業工程である。実際には各工程の時間や度量衡などの具体的な数値も教えていただけたが、企業秘密に属する情報なのでそのあたりの詳細は伏せておく。その点、ご了承願いたい。

ミキシングした生地を伸ばして麺帯に

まず小麦粉と水、かん水を混ぜて生地を作る。生地は伸ばして重ねてまた伸ばして……という工程を経て、太い帯状=麺帯にする。下の写真の左寄りに写っているのは蕎麦の麺帯で、少し色味が付いている。麺帯にしたらしばらく寝かせて、熟成させる。

麺帯を伸ばして切り出す

ちなみにタチバナ製麺所では、蒸し麺もそれ以外の中華麺も、標準商品は基本的に同じ配合だそうだ。焼きそば用の安い小麦粉も流通しているが、グルテンがうまく形成されないのか、麺帯にするのも難しいとのこと。激安スーパーの極端に廉価な焼きそば麺は、そういった小麦粉で作られており、もちろん食味も格段に落ちる。「大盛」を謳う露店などには需要があるらしい。

焼きそば麺の切刃は20~24番手

麺帯を熟成させたら、圧延機で薄く伸ばして、任意の太さに切り出す。太さは切刃の番手で決まり、番手が大きいほど麺は細くなる。麺が細すぎると蒸すのに耐えきれず、ぶちぶち短く千切れてしまうそうだ。

ここまでは通常の中華麺と同じ

麺を切り出し、くっつかないよう打ち粉を振ったら、冷蔵庫で寝かせる。通常の生中華麺なら、これで出来上がりだ。しかし蒸し麺はここから本格的な作業が始まる。

寝かせた麺を蒸籠に広げる

麺を蒸す工程には蒸籠を使う。底が網目になっている専用トレイに、寝かせた麺をまんべんなく広げる。生麺を蒸し上がると、元の重さの1.5倍になるそうだ。前掲の商品リストでは焼きそば麺が「一食150g」と記載されている。1食分が生麺の状態で100g。それを蒸すと150gになるわけだ。

高圧・高温で蒸す

トレイに麺を広げたら、蒸し器にセットして高圧・高温で蒸す。かん水の入った中華麺を蒸し上がると蒸し麺独特の色が付く。黒い二度蒸し麺は、黄色い浅蒸し麺よりも長時間蒸している。また麺の条件や季節によって最適な時間は変化する。色を見ながら微調整する職人技の世界だ。

流水でほぐしながら水洗い

頃合いを見て蒸し器からトレイを外し、麺をザルに上げ、流水でほぐしながら水洗いする。蒸し上がったばかりの麺は超高温のため、浸かった水も高温になる。慣れないと手を安易に突っ込んで火傷してしまうそうだ。

水を切ったら二度蒸しに

麺を洗い終わったらしっかり水を切り、専用トレイに再び広げて蒸し器にセットし、もう一度蒸す。これがいわゆる二度蒸しだ。

もう一度水洗い

二度蒸しの工程が終わったら、麺をまたザルに上げ、再び水洗いする。「若い頃に美容師を一時期やっていたんですよ」という嶺村さん。そこで身につけた髪を指で梳く技術が、麺を水洗いするのに役立っているそうだ。

全身を使って水切り

しっかり洗い終わったら水を切る。水分が残っているとこの後の工程で麺と麺がくっついたり、傷みやすくなってしまう。そうならないよう、全身を使って体重を掛け、できるだけ水分を残さないようにする。腰を痛めやすい作業だ。

麺の表面を油でコーティング

水切りした麺に食用油を掛け、麺の表面をコーティングする。一斗缶入の油はかなりの重さで、この作業も繰り返すと身体への負担になる。なお、この油も小麦粉も、今年に入ってから値上がりが激しいらしい。新型コロナにウクライナに円安。厳しい状況だよなあ……

麺1段分を2つに分けてポリ袋に入れる

油をまぶしたら、麺を透明のポリ袋に入れ、冷蔵庫で寝かせる。黒い二度蒸し麺と浅蒸し麺とで寝かせる時間は異なる。そのあたりは長年の経験による。

冷却した麺はくっついてしまっている

冷却した麺は自重でくっついてしまっているので、麺が切れないよう丁寧にほぐす。この工程も地味に手間が掛かる作業だ。ほぐしたら冷蔵庫に戻して、さらに冷却する。

麺が切れないよう丁寧にほぐす

すべての工程を経た麺は、コンテナや袋詰めで出荷され、飲食店や露店・催事場などへ納品される。繁忙期には焼きそば麺だけで、数千玉というオーダーが入るという。ここまでに紹介した作業を何十回、何百回と繰り返さねばならない。全て手作業で火傷や腰痛のリスクが伴うし、時間も掛かる。当然、請け負う量には限界がある。

二度蒸しの黒い麺

このように二度蒸し麺は、生麺とは比較にならないほど工程が多い。また蒸し器のガス代や麺を洗う水道代などのコストも掛かる。製麺というより、むしろ調理に近い。しかし一食70円。卸価格を生麺より大幅に上げるわけにもいかない。正直、原価と売値が割に合わない商品だ。請け負う製麺業者が減少するのも当然と言えば当然である。

二度蒸しのコストに見合った価格が市場に受け入れられなければ、伝統的な浅草焼きそばは廃れてしまう。私は二度蒸し麺の価値が見直されることを願ってやまない。これだけ手間暇を掛けているだけあって、二度蒸し麺を使った焼きそばの味は格別なのだ。

自作の浅草風焼きそば

上の写真は自分で調理した焼きそばだが、肉は使わずキャベツと天かすだけでも十二分に美味しくなる。甘めの濃厚ソースではなく酸味がある辛口のウスターソースを使い、具を少量にして麺を主体にした方が、二度蒸し麺の食味・歯応えが引き立つと思う。

宮城県石巻市の「石巻焼きそば」や茨城県ひたちなか市の「那珂湊焼きそば」、京都府福知山市の「ゴムそば」など、全国には二度蒸し麺(深蒸し麺)を特徴とするご当地焼きそばがある。私はそれらのルーツを戦前の浅草と考えている。タチバナ製麺所が作る二度蒸し麺は、その浅草生まれのソース焼きそばの原型を現代に伝える貴重な存在なのだ。

ちなみに普通の中華麺も、もちろん美味しい。小売への流通も通信販売もないので入手は困難だが、もし上野周辺に訪れる機会があったら工場まで足を伸ばし、試しに購入して実際に味わってみてほしい。市販の蒸し麺や関西風の茹で麺と二度蒸し麺との明らかな違いを、体験していただけることだろう。

嶺村代表! 貴重な機会を本当にありがとうございました!

店舗情報住所: 東京都台東区東上野5丁目21−9
営業時間: 7:00~18:00
定休日: 日曜
主なメニュー二度蒸しの黒い麺 70円
浅蒸し(普通の黄色い麺) 65円