【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(3/7)

2019年1月4日

第ニ章の続きです。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。


第三章 太麺から細麺へ、長崎皿うどんの変遷を追う

「皿うどん」が大正5年の長崎新地中華街に存在し、昭和初期には長崎で普及していたとして、次に知りたいのはその麺の太さだ。初期の「皿うどん」は、現在の四海楼と同様に太いチャンポン麺を使っていたのだろうか?

戦前の皿うどんは、ほぼ全て太麺

第二章で紹介した新宿チャンポンの皿うどんは、支那うどんイコール太麺を使っていた。そのほかの戦前の証言も「ちゃんぽんとの違いはスープの有無のみ」など、ちゃんぽんと同じ麺を使った太麺皿うどんがほとんどだ。

第二章で紹介しきれなかった戦前のレシピも一つ取り上げておこう。昭和15年『婦人倶楽部5月号』(1940)では、うどんまたは干しうどんを大匙三杯の油で焦がさぬように炒めるよう書いてある。これも太麺皿うどんだ。

1940_婦人倶楽部5月号

うどんを豚肉と野菜と一緒に痛めた、簡単で變つた洋風お惣菜です。
材料(五人前) うどんの玉(又は干しうどん)五人前分(中略)
拵へ方②大型のフライ鍋(パン)かアルミの鍋に油大匙三杯を熱して、うどんをざつと炒め、これへ前の材料を加へて熱くなるまで十分に炒め、鹽、胡椒、味の素で、美味しく味をつけます。これを大皿に盛って出し、小皿にソースを入れ、熱い中に銘々それをつけながらいただきます。

<画像キャプション>
油が煮立つたところへうどんを入れて焦がさぬやうに炒め、豚肉、筍もやしを入れて更に炒めます。

戦中から終戦直後に掛けては食料統制が厳しく、外食も制限されていたためか、皿うどんの資料を探しても見つからなかった。ようやく見つけたのは戦争が終わって七年後の出版物。昭和27年『長崎郷土物語 わしが町さ物語』(1952)で、「皿うどん」に「うどん玉」を使うことが書かれている。これも戦前資料の大半と同じく太麺だ。

1939_1952_長崎郷土物語

“長崎の食物の主座はなんといっても中華料理である。中華料理を代表するものはちゃんぽん、皿うどんであろう。(中略)
皿うどんがちゃんぽんと違う処は、最初に、ラードにうどん玉を焼き、具はちゃんぽん用と同様に作るが、砂糖と酒を少量に用いスープを少くする処が違っている。”

変わらぬ四海楼の太麺皿うどん

そして四海楼の「皿うどん」も戦前戦後と変わりなく太麺だった。

四海楼創業者・陳平順氏のもとで修行し免状を受けた日本人、大浦仁介氏。彼が昭和29年に開業した佐世保・四海楼では、今でも「皿うどん」イコール太麺だ。第一章で紹介した長崎以外の一部老舗と同様に、パリパリ細麺は「焼きそば」という名前で提供している。陳平順氏の時代から皿うどんは太麺、炒麺(焼きそば)は細麺だったことが伺える。

佐世保・四海楼創業者 大浦仁介氏

代替わりしても四海楼の味はそのままだ。『サンデー毎日/昭和39年12月13日号』に、四海楼の二代目・陳揚春氏のインタビューが掲載されている。その中で「チャンポン」の作り方を語ったあと、「サラうどん(皿うどん)」を紹介している。「チャンポン」との違いについて「スープのないのがサラうどん」とだけ語り、麺の違いには一切触れていない。チャンポンと同じ麺を使っていたことが推察できる。

1964_サンデー毎日

“スープのないのがサラうどんですが、日本人のお客さんは、もっとも栄養のあるスープを残す人やサラうどんを食べるとき、ソースを浴びるようにかける人が多い。これではちゃんぽん、サラうどんの味が死んでしまいます。”

さらに昭和47年『お料理専門誌マイクック 11月号』(1972)、「長崎旅情」と題した長崎の特集号。この雑誌に四海楼三代目の陳名治氏が「上海航路より愛をこめて長崎チャンポン」と題して一文を寄せている。最後に皿うどんにも触れていて、チャンポンと同じ麺(唐アク麺)を使うと記している。

1972_お料理専門誌マイクック11月号3

“(ちゃんぽんの説明のあと)また、唐アク麺の上に、具を炒めて片栗粉のとろみをつけてかけたのが、皿うどんです。”

また昭和31年4月3日に今上天皇の弟宮、義宮(常陸宮)様が四海楼を訪問し、皿うどんを召し上がった。

1977_0401_義宮殿下

四海楼四代目・陳優継氏が著した『ちゃんぽんと長崎華僑』(2009)によれば、その皿うどんは太麺だったという。

2009_ちゃんぽんと長崎華僑 殿下と皿うどん

“一九五六年四月三日には義宮(常陸宮)殿下が四海樓においでになった。このときは中華料理のフルコースに皿うどんをさしあげたのだが、よほど皿うどんがお気に召されたのか、お代わりを所望された。接待にあがっていた清姫はことさらに感激した。このときの皿うどんはちゃんぽん麺を使った太麺の皿うどんであった。”

その20年後、昭和51年4月1日に現皇太子殿下の浩宮様も四海楼を訪れ、ちゃんぽんと皿うどんを召し上がり、皿うどんをおかわりされたという。『ちゃんぽんと長崎華僑』にはこの際の話も載っている。

1997_0403_浩宮殿下

2009_ちゃんぽんと長崎華僑 再び殿下と皿うどん

“一九七七年四月一日に浩宮さま(皇太子殿下)がおいでになられた。(中略)
中華料理のフルコースを差し上げる予定だったが、まだ学生のご身分でいらっしゃるという宮内庁の意向から、ちゃんぽんと皿うどんをお出しした。浩宮さまもまた皿うどんをお代わりされ、その味に満足してお帰りになられた。”

皿うどんの麺の太さについての記述は見当たらないが、ミュージアムのスタッフの方に確認したら、「恐らく太麺だったろうと思います」と答えてくださった。たしかに四海楼で「皿うどん」と記述する場合は太麺と考えて間違いないだろう。そうあって欲しい。

昭和32年の「太ッとかと皿うどん」

戦前の皿うどんに太麺があったことは間違いない。では細麺の皿うどんはいつごろから存在したのだろうか?

ここで昭和32年『あまカラ(74)』(1952)の「太ッとかと皿うどん」という随筆を紹介したい。筆者は明治40年(1907年)長崎生まれの文筆家、山本健吉氏。東京から長崎へ客人を連れ、宿で四海楼の皿うどんの出前を注文した。すると「うどんが非常に細目」な皿うどんが運ばれてきた、とある。

1957_あまカラ (74)1

“私の発案で四海楼の皿うどんを注文することにした。”
“宿の女中が、いくらのを注文しましょうかと言った。”
“チャンポンとか皿うどんに使う麺は、中華そばと、全く違う。細めのうどんぐらいの大きさで、特別の製法によるものらしい。具にモヤシ・白菜・豚肉・サツマ揚・蒲鉾・キクラゲ貝類などを入れ、油で炒めて皿に盛ったものが皿うどんだ。”
“私がガッカリしたのは、うどんが非常に細目になって、東京の焼そばのような味気ない味がしたことだ。”

昭和31年に宮様へ太麺皿うどんを出した四海楼だ。それが翌年に皿うどんを注文されて細麺を出すというのも考えにくい。もしかしたら女中が気を利かせて細麺を指定したのかも知れない。その夜、山本は知人の長崎郷土史研究家、渡辺康輔氏に「なぜ四海楼は細麺を使うようになったのか」と尋ねた。すると「そりゃあ、太いのって注文しなきゃ持ってこないでしょう」と返された。

1957_あまカラ (74)2

“私はそのとき、渡辺さんに、どうして四海楼は、細っこいうどんを使うようになったのかと聞いた。すると氏は笑いながら、
「そりゃあ、太ッっとかばて注文せにゃ、持ってこんばい」と言った。”
“渡辺さんは、味覚が変わってきて、みんな細目のうどんを好むようになったので、お客の好みに調子を合せて、細くしたのだ。とくべつに「太ッとかと」を注文する客には昔通りのものを出す、と弁解した。東京風の、中華そば、焼そば流の好みが、長崎にも侵入してきたものらしい。そう言えば、昔から、店によっては細目のうどんを使っているところもあった。私たちは、それらの店を、四海楼に及ばぬもの、としていたのである。”
“帰る日に私は本籠町の知人の家へ行った。”
“夫人が歓待して、近所から皿うどんとチャンポンを取ってくれた。これはどちらも太目のうどんを使っていて、たいへんおいしかった。”

重要なのは、長崎を出て東京で暮らす山本が「皿うどんは太麺」と考えていたのに対して、長崎で暮らす女中や渡辺が「皿うどんは細麺」と認識していたことだ。昭和32年当時、長崎では細麺が一般化し始めていたことになる。また、「味覚が変わってきて、みんな細目のうどんを好むようになったので、お客の好みに調子を合せて、細くした」「そう言えば、昔から、店によっては細目のうどんを使っているところもあった」というのも貴重な証言だ。

「昔から、店によっては細目のうどんを使っているところもあった」という証言については、第二章で紹介した永井隆『亡びぬものを』でも戦前から細麺皿うどん存在したことが記述されていた。「細い黄色いの」というから、唐灰汁を使った蒸し麺だろう。

1934_亡びぬものを

うどんは細い黄色いのと、太い白いのと二通りあったし、また細い米粉(ミイフン)もあった。それに熱湯をかけてから豚脂をたっぷり使っていためて大皿に盛り、別に豚肉、いか、紅かまぼこ、あげかまぼこ、あげまき、小エビ、もやし、玉ねぎ、キャベツ、にんじんなどを大まかに刻んで豚脂でいため、うどんの上にかけて、熱いうちに各自の小皿に分けてとり、ソースをかけてやかましくしゃべり合いながら食うのである。

ただし、戦前のこの証言は「熱湯をかけてから豚脂をたっぷり使っていため」とある。細麺を使っていたが、パリパリに揚げていたわけではなさそうだ。また、これ以外に戦前の細麺皿うどん証言はない。昭和32年の「太ッとかと皿うどん」も「うどんが非常に細目になって」としか書いておらず、太麺皿うどんが細麺になっただけで柔らかかったようにも読める。

次の章で述べるように、戦前に創業した長崎市内の中華料理店で「皿うどん」イコール太麺の店は四海楼だけだ。だからといって、四海楼以外の店が全て戦前からパリパリ細麺を「皿うどん」として提供していたとは限らない。現時点では「戦前の一部の店で細麺を炒めた皿うどんが提供されていた」「昭和30年代には細麺皿うどんが長崎で普及していた」程度に解釈しておくのが妥当だろう。

戦後に細麺が広まった理由

ところで戦後に細麺が広まった理由について、「太ッとかと皿うどん」の中では「味覚が変わってきて、みんな細目のうどんを好むようになった」と述べられている。しかし私はそれだけが理由ではないように思う。戦中・戦後の物資欠乏で燃料を節約するため、茹でたり揚げたりするのに時間が掛かる太麺より、短時間で調理できる細麺が重宝されるようになったのではないだろうか。

昭和28年(1953年)の『週間サンケイ12月(日付不明)号』。ここで皿うどんのレシピが紹介されている。「ちゃんぽん麺」ではなく「中華そば」を使っているのは、全国誌として入手しやすい品を選んだのだろう。しかし、それ以上に物資欠乏を配慮した記述が目立つ。

1953_週間サンケイ_12月X日号

皿うどん 榊淑子
寒い季節には身体の温まるメン類が喜ばれます。足りないお米を補ううえから、メン類を美味しくめしあがるのは、お台所上手というもの。そこで長崎名物の“皿うどん”の作り方をご紹介しましょう。
材料は中華そばと、豚肉、いか、貝、もやし、ねぎ、椎茸、きゃべつ、白菜など。もつともこれだけの材料が全部そろわなくても結構で、予算とにらみあわせた上のこと、貝類と野菜だけの組み合わせでもよろしいでしょう。
作り方は、肉も野菜も千切りにし、ラードまたは植物油で炒めます。味付けは醤油、鹽、味の素でいたしますが、野菜を多くしたほうが汁気が出て好都合です。中華そばはたつぷりした油の中でこげ目がつくほど炒め、その上から、前の野菜から出た汁をかけ、全体をしめらせます。そうすると味のついた汁でそばはやわらかくなります。それを大皿にのせ、さきに炒めた材料を、そばが見えなくなるほどたつぷりかけていただきます。
なお上等には、鳴戸、かまぼこ、薄焼き卵の千切り、そして青味としてさやえん豆などを飾りつけます。
とびきり上等にするには、始めの材料の中に海老、筍などをおまぜ下さい。

曰く、「足りないお米を補う」「材料が全部そろわなくても結構」「予算とにらみあわせた上」「貝類と野菜だけでもよろしい」などなど。終戦直後より食糧事情は改善したのだろうが、まだまだ十分に足りるほどではなかったのだ。また、ここでも麺は揚げず、炒めている。こういう時代なので調理に時間が掛からず、燃料を節約できる細麺の方が選ばれたように思う。

また30年代に細麺皿うどんは普及していたが、太麺もまだまだ健在だった。「太ッとかと皿うどん」で山本が帰る日に知人の夫人が近所から取ってくれた皿うどんは太麺だ。夫人が太麺を指定した可能性もあるが、以下に述べるように、昭和30年代は太麺と細麺が入り混じった時期だったのだ。

太麺と細麺の入り混じった昭和30年代

それでは皿うどんに触れた昭和30年代以降の資料を年代順に追ってみよう。

「太ッとかと皿うどん」と同年の昭和32年に出版された『長崎への招待(初版)』(1957)では、太麺(筋の太い玉)と細麺(筋の細い玉)の両方が紹介されている。

1957_長崎への招待(初版)

“チャンポンのうどんはうどん粉をアクに漬け、ゆがいたもので、皿うどんの筋の太い玉、筋の細い玉があり、以上両種のうち、玄人は筋の太いのを好む。”

細麺が広まりつつある状況の中、「通は筋の太いのを好む」とあえて書いている著者・嘉村国男氏は、山本健吉と同じく根っからの太麺派だったのだろう。なお、ここでも細麺をパリパリに揚げているような記述はない。

揚げ麺の初出は、第二章で取り上げた昭和33年『長崎料理史』(和田常子, 1958)だ。同書の「皿うどん」のレシピでは、麺の太さは定かではないが「細かく切った干麺」を「ラードで充分揚げる」よう指示している。思い出としての「皿うどん50銭」を語った当時のレシピか、あるいはこの本が出版された昭和33年当時のレシピか、時代的な特定はできない。ただ遅くとも昭和33年に揚げ麺の「皿うどん」が存在していたことは明らかだ。

1958_長崎料理史2

“ちゃんぽんと材料はおなじですが一方は汁のない料理で一口でいえば「やきそば」のようなものでしょう。(中略)
ちゃんぽんと皿うどんの違うところは(と、「細かく切った干麺」「ラードで充分揚げる」「くずをかける」「ソース」「大皿に盛る(2~5人分)」などを表で紹介)。
ちゃんぽんは具と麺を同時に味わう料理ですが、皿うどんはラードで急速に調理した麺の風味を味う料理です。(中略)
麺をいためるのではなく、麺を揚げるという気持で油を使うことがコツです。”

昭和40年『あまカラ (161)』(1965)に、紀行作家の戸塚文子が「ちゃんぽん/皿うどん」という随筆を寄せている。神田の「望知香」という店で教わった皿うどんレシピは、ちゃんぽん麺を使った太麺皿うどんだ。40年代に至っても、皿うどんイコール太麺のレシピは存在していた。

1965_あまカラ (161)

皿うどんは材料的にはちゃんぽんとほとんど変わらない。調理が違うのである。支那鍋に油を入れ、にんにくのすりおろしを加えて、油が十分まわったところへ、ちゃんぽん玉をほぐして、いためる。油いりといえば、いいのだろうか。豚肉、貝のむき身、かまぼこ、にんじん、白菜、きくらげ、もやし、その外、季節の野菜など、取り合わせて、同じように油いためする。
大きな皿に、まず、いためた麺を盛り、その上にいためた具をたっぷりと、盛りあげる。あっさり塩味がついている。皿に盛りあげたところが、麺類らしくなくて、印象的なので、皿うどんの名がついたものだろう。
私はこの皿うどんが、大好物でよく真似して、作って食べる。長崎のように、ちゃんぽん玉が手に入らないから、ふつうのうどんで代用する。今ではこのうどんで作るニセちゃんぽんの方が、好きなくらいである。

神田駅から東京駅へ向う国鉄の線路下の道沿いに、「望知香」という小さなバーがある。バーだけれども酒類以外に気のきいた長崎料理や、ロシア風の小皿、サンドイッチも食べさせる。(中略)私の作る皿うどんは、この「望知香」でおぼえたものである。

太麺派の著者・嘉村国男氏の筆による『長崎への招待(第二版)』(昭和41年、1966)では、太麺(アクウドン)のみが取り上げられ、同書の初版にあった細麺の記述は消えてしまった。翌昭和42年の第三版も全く同じ内容。40年代に至ってもなお、昔ながらの太麺にこだわる長崎人は存在したのだ。ただし時代の趨勢は細麺皿うどんへと傾いていた。

1966_長崎への招待(2版)

“(チャンポンの説明に続けて)この具を油、醤油、調味料で味付けたのをアクウドンの上に乗せ、かしわのスープを掛ける。スープを掛けないでデンプンでトロミをつけたのが皿うどん。皿うどんはソースで食べるのが普通だが、中にはお醤油をブッかけてたべるツウもいる。”

昭和40年代、細麺が皿うどんの主流に

昭和42年『長崎文化 第22号』(1967)には、「他県では皿うどんという名前をはばかって焼きそばという名で作り始めた。しかし長崎でも焼きそばという名前で提供する店がある、もっと誇りを持て」という内容の文が載っている。どうやら当時の長崎には、佐世保・四海楼や他県と同様にパリパリ細麺を「焼きそば」と呼んでる店があったようだ。

1967_長崎文化第22号

“焼そばという料理がある。これは他地方で皿うどんという名でこの種料理を作るのをはゞかって皿うどんと同種の物を焼そばという名で作りはじめたのである。それであるのに長崎の中華飯店に焼そばとあるのも解せないし、もっと長崎料理に誇を持てといってやりたいほどである。”

筆者はおそらく細麺を「皿うどん」と呼んでいて、それを念頭に書いたのだろう。昭和42年頃には細麺の呼び名が「皿うどん」「焼きそば」入り混じっていたこと、そして「細麺皿うどん」が長崎で主流となりつつあったことが読み取れる。

「皿うどん」イコール「パリパリに揚げた細麺」として記述した初出は、私の調べた限りでは昭和43年『井手勝治のお料理読本 長崎の家庭料理』(1968, 2009年復刻版)だ。2009年に出版された同書の復刻版の「長崎皿うどん」のレシピでは、「チャーめん(中華細麺)」を揚げるように書かれている。太麺の存在については全く触れられていない。

1968_長崎の家庭料理

“長崎皿うどん
材料(3人分):チャーめん(中華細麺) 250g
(中略)
[作り方]
1.チャーめんを熱した油で色よく揚げ大鉢に盛っておきます。
2.鍋にラードを熱し豚肉・玉葱・キャベツ・筍の順に炒めスープを注いで調味します。いか・えび・はんぺん・ちくわを入れ、味加減をみて、もやし・葱を加え最後に片栗粉の水溶きを加えて濃度をつけ、よくかき混ぜて盛ったチャーめんの上にたっぷりかけて供します。(強火で揚げ、強火で炒めること)”

昭和44年から46年に掛けて連載されていた、映画評論家・荻昌弘『男のだいどこ』でも細麺皿うどんのレシピが紹介されている。「油で焼そば状にいためたうどん」とも「揚げる油」とも書いてあって、炒めるのか揚げるのか不明。また著者・荻昌弘が褒めている神田「望知香」の皿うどんは、紀行作家の戸塚文子によれば太麺だったはず。ただ細麺皿うどんを好む人が増え、それがレシピとして紹介されるようになったことを示す資料ではある。
1971_男のだいどこ

要するに、油で焼そば状にいためたうどんに、焼きそばと同じ、好き勝手な五目をのっけただけの一皿であるが、味や雰囲気は、中華そばとは全然ちがう。私がはたち代の昭和二十年代後半、神田は望知香という店の皿うどんは、ボリューム、味とも、若者の心をみたすものであった。(中略)
皿うどんのうどんは、これがなかなか手にいれにくいのだが、細身でないとおもしろくない。揚げる油はひたすらに、ラードである。それ以外は、これまたおもしろくない。(後略)

昭和47年は、太麺皿うどんが主流として紹介された最後の年だ。まず昭和47年『山と渓谷4月号』(1972)の「YAMAKEI COOKING CARD」に掲載された、野外向けの皿うどんレシピ。

1972_04山と渓谷4月号1

このレシピでは干しうどんを茹でて使っている。揚げるどころか炒めてもいない。一般家庭用ではない特殊な例で、「ラーメンでもよい」と書かれてはいるが、太麺が皿うどんの標準として記述されている。

1972_04山と渓谷4月号2

●材料(四人前)
うどん(干したもの)……1把

■作り方
味がしみたら、ゆでたうどんを入れ、沸騰したら火を消す。

○皿うどんの麺はラーメンでもよい。うどんの場合は丸い方がうまい。

そして昭和47年『お料理専門誌マイクック 11月号』。この章の冒頭で、四海楼三代目の陳名治氏が一文を寄せたとして紹介した「長崎旅情」特集号だ。表紙には皿うどんを食べる女性の写真が使われている。この皿うどんは、柔らかい太麺にあんを掛けたタイプの皿うどんだ。本当はカラー写真なのだが、長崎県立図書館に白黒コピー機しかなかったのが残念。

1972_お料理専門誌マイクック11月号1

同誌では陳名治氏の文とは別に、白黒ページの座談会で参加者の一人が太めの「皿うどん」に触れ、太麺が「もとからあったもの」と語っている。文中の「大麺」「小麺」は「太麺」「細麺」の意味。あえて「もとからあったもの」と説明する必要があるほど、太麺は珍しい存在になってしまったのだろう。

1972_お料理専門誌マイクック11月号4

“皿うどんも美味しいですね。大麺と小麺の二種がありますが、大麺がもとからあったものです。”

私が調べた限りだが、この雑誌以降太麺を長崎皿うどんの主流として紹介する例は見つかっていない。昭和50年代に入るとパリパリ細麺の皿うどん一色になる。

(「第四章 パリパリ細麺が長崎皿うどんになった理由(わけ)」に続く)