【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(3/7)

第ニ章の続きです。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。


第三章 時系列の検証その2、長崎皿うどんがパリパリ細麺になるまで

本来の長崎皿うどんは太麺だった

「皿うどん」が大正5年の中華街に存在し、昭和8年ごろには長崎で普及していたとして、次に知りたいのはその麺の太さだ。初期の「皿うどん」は、現在の四海楼と同様に太いチャンポン麺を使っていたのだろうか?

第二章で最も古い皿うどんの証言として紹介した昭和56年3月26日付『朝日新聞』(1981)の読者投稿。その「皿うどん」のレシピは乾麺を茹でて炒めるよう書いてあり、片栗粉でトロミを付けたりはしない。また「香ばしいうどん」とも書いてある。大正5年の「忘れられない味」は太麺の「皿うどん」だったのだろう。

1981_0326_朝日新聞

“乾麺を固めにゆで、さっと水で洗ってざるにあげておきます。(中略)
多めの油(ラードでもよい)で炒めておいためんを加え、残りの煮汁もかけます。(中略)
香ばしいうどんと濃厚な具の味がとけ合って、意外と豪華な満腹感に浸れます。”

大正9年に足立巻一が食べた皿うどんは、その祖父・足立敬亭の『鎖国時代の長崎』や子母沢寛『味覚道楽』の記述から太麺と推定されることは前章で述べた。

昭和11年にサトーハチローが新宿で食べた皿うどん。「皿うどんなるものはヤキソバの兄貴」だけだと太麺か細麺かわからないが、そのあと「チャンポンの方は丼に入っておつゆがある」と述べている。麺の違いには触れていないので恐らく太麺だっただろう。

1936_僕の東京地図

“皿うどんなるものはヤキソバの兄貴だと思えば間違いはない。三十銭のを一つあつらえると、二人で結構腹がふくれる。チャンポンの方は丼に入っておつゆがある。”

昭和14年『長崎茶話 第三號』の「ちゃんぽん」という随筆。この文では「うどん其ものが既にわるくなつてゐる」と、あくまでも「皿うどん」が「うどん」として語られている。これも太麺と推察できる。

1939_長崎茶話大三號

“皿うどんとちゃんぽん、目黒のが一番古いと思ふが、今もやつてゐるかどうか、新宿のだけは一度食べてみた。味のつけ加減がくどすぎて、脂つぽいやうだつた。気のせいだか知らない。
味のつけ方といへば、近頃長崎のだつて、食べるたびに悪くなつてゆくやうだ。うどん其ものが既にわるくなつてゐる。”

ここまでが第二章で取り上げた戦前の資料で、全てチャンポンと同じ太麺だった。戦後はどうだったのか、さらに検証を続けよう。

変わらぬ四海楼の太麺皿うどん

四海楼の「皿うどん」は戦前戦後と変わりなく太麺だったようだ。『サンデー毎日』の昭和39年12月13日号では、四海楼の二代目・陳揚春氏のインタビューが掲載されている。その中で「チャンポン」の作り方を語ったあと、「サラうどん(皿うどん)」を紹介している。「チャンポン」との違いについて「スープのないのがサラうどん」とだけ語り、麺の違いには一切触れていない。チャンポンと同じ麺を使っていたことが推察できる。

1964_サンデー毎日

“スープのないのがサラうどんですが、日本人のお客さんは、もっとも栄養のあるスープを残す人やサラうどんを食べるとき、ソースを浴びるようにかける人が多い。これではちゃんぽん、サラうどんの味が死んでしまいます。”

また昭和31年4月3日に今上天皇の弟宮、義宮(常陸宮)様が四海楼を訪問し、皿うどんを召し上がった。

1977_0401_義宮殿下

陳優継氏が著した『ちゃんぽんと長崎華僑』(2009)によれば、その皿うどんは太麺だったという。

2009_ちゃんぽんと長崎華僑 殿下と皿うどん

“一九五六年四月三日には義宮(常陸宮)殿下が四海樓においでになった。このときは中華料理のフルコースに皿うどんをさしあげたのだが、よほど皿うどんがお気に召されたのか、お代わりを所望された。接待にあがっていた清姫はことさらに感激した。このときの皿うどんはちゃんぽん麺を使った太麺の皿うどんであった。”

その20年後、昭和51年4月1日に現皇太子殿下の浩宮様も四海楼を訪れ、ちゃんぽんと皿うどんを召し上がり、皿うどんをおかわりされたという。『ちゃんぽんと長崎華僑』にはこの際の話も載っている。

1997_0403_浩宮殿下

2009_ちゃんぽんと長崎華僑 再び殿下と皿うどん

“一九七七年四月一日に浩宮さま(皇太子殿下)がおいでになられた。(中略)
中華料理のフルコースを差し上げる予定だったが、まだ学生のご身分でいらっしゃるという宮内庁の意向から、ちゃんぽんと皿うどんをお出しした。浩宮さまもまた皿うどんをお代わりされ、その味に満足してお帰りになられた。”

皿うどんの麺の太さについての記述は見当たらないが、ミュージアムのスタッフの方に確認したら、「恐らく太麺だったろうと思います」と答えてくださった。たしかに四海楼で「皿うどん」と記述する場合は太麺と考えて間違いないだろう。そうあって欲しい。

昭和30年代から細麺への移行開始

四海楼以外の状況はどうだろう。昭和27年『長崎郷土物語 わしが町さ物語』(1952)では「皿うどん」に「うどん玉」を使うことが書かれている。このころは戦前と同じく太麺のようだ。

1939_1952_長崎郷土物語

“長崎の食物の主座はなんといっても中華料理である。中華料理を代表するものはちゃんぽん、皿うどんであろう。(中略)
皿うどんがちゃんぽんと違う処は、最初に、ラードにうどん玉を焼き、具はちゃんぽん用と同様に作るが、砂糖と酒を少量に用いスープを少くする処が違っている。”

ところがその五年後、昭和32年『あまカラ(74)』の「太ッとかと皿うどん」。筆者は明治40年(1907年)長崎生まれの文筆家、山本健吉。東京から長崎へ客人を連れ、宿で四海楼の皿うどんを注文することにした。すると「うどんが非常に細目」な皿うどんが運ばれてきた、とある。

1957_あまカラ (74)1

“私の発案で四海楼の皿うどんを注文することにした。”
“宿の女中が、いくらのを注文しましょうかと言った。”
“チャンポンとか皿うどんに使う麺は、中華そばと、全く違う。細めのうどんぐらいの大きさで、特別の製法によるものらしい。具にモヤシ。白菜・豚肉・サツマ揚・蒲鉾・キクラゲ貝類などを入れ、油で炒めて皿に盛ったものが皿うどんだ。”
“私がガッカリしたのは、うどんが非常に細目になって、東京の焼そばのような味気ない味がしたことだ。”

昭和31年に宮様へ太麺皿うどんを出した四海楼だ。それが翌年に皿うどんを注文されて細麺を出すというのも考えにくい。もしかしたら女中が気を利かせて細麺を指定したのかも知れない。その夜、山本は知人の長崎郷土史研究家、渡辺康輔氏に「なぜ四海楼は細麺を使うようになったのか」と尋ねた。すると「そりゃあ、太いのって注文しなきゃ持ってこないでしょう」と返された。

1957_あまカラ (74)2

“私はそのとき、渡辺さんに、どうして四海楼は、細っこいうどんを使うようになったのかと聞いた。すると氏は笑いながら、
「そりゃあ、太ッっとかばて注文せにゃ、持ってこんばい」と言った。”
“渡辺さんは、味覚が変わってきて、みんな細目のうどんを好むようになったので、お客の好みに調子を合せて、細くしたのだ。とくべつに「太ッとかと」を注文する客には昔通りのものを出す、と弁解した。東京風の、中華そば、焼そば流の好みが、長崎にも侵入してきたものらしい。そう言えば、昔から、店によっては細目のうどんを使っているところもあった。私たちは、それらの店を、四海楼に及ばぬもの、としていたのである。”

重要なのは、長崎を出て東京で暮らす山本が「皿うどんは太麺」と考えていたのに対して、長崎で暮らす女中や渡辺が「皿うどんは細麺」と認識していたことだ。昭和32年の段階で長崎では細麺が一般化し始めていたことになる。また、「味覚が変わってきて、みんな細目のうどんを好むようになったので、お客の好みに調子を合せて、細くした」「そう言えば、昔から、店によっては細目のうどんを使っているところもあった」というのも貴重な証言だ。ただ完全に「皿うどん」イコール細麺になったわけではない。山本が帰る日に知人の夫人が近所から取ってくれた皿うどんは太麺だ。「太ッとかと皿うどん」と注文した可能性もあるが、たぶん太麺と細麺が入り混じった時期なのだろう。

昭和32年『長崎への招待(初版)』(1957)では、太麺(筋の太い玉)と細麺(筋の細い玉)の両方が紹介されているが、こちらだと太麺が主流に読める。

1957_長崎への招待(初版)

“チャンポンのうどんはうどん粉をアクに漬け、ゆがいたもので、皿うどんの筋の太い玉、筋の細い玉があり、以上両種のうち、玄人は筋の太いのを好む。”

さらに昭和41年、同書の第二版『長崎への招待(第二版)』(1966)では、太麺(アクウドン)のみを取り上げ、細麺の記述は消えてしまった。翌昭和42年の第三版も全く同じ内容。この著者・嘉村国男は太麺派なのだろう。

1966_長崎への招待(2版)

“(チャンポンの説明に続けて)この具を油、醤油、調味料で味付けたのをアクウドンの上に乗せ、かしわのスープを掛ける。スープを掛けないでデンプンでトロミをつけたのが皿うどん。皿うどんはソースで食べるのが普通だが、中にはお醤油をブッかけてたべるツウもいる。”

昭和30年代に入って細麺は既に普及しつつあった。しかし40年代に至ってもなお、『長崎への招待』の著者・嘉村国男のような昔ながらの太麺にこだわる客は無視できない割合だったに違いない。

第二章で取り上げた昭和33年『長崎料理史』(和田常子, 1958)には「皿うどん」のレシピが載っている。麺の太さは定かではないが「細かく切った干麺」を「ラードで充分揚げる」よう指示している。思い出としての「皿うどん50銭」を語った当時のレシピか、あるいはこの本が出版された昭和33年当時のレシピか、時代的な特定はできない。ただ遅くとも昭和33年に揚げ麺の「皿うどん」が存在していたことは明らかだ。

1958_長崎料理史2

“ちゃんぽんと材料はおなじですが一方は汁のない料理で一口でいえば「やきそば」のようなものでしょう。(中略)
ちゃんぽんと皿うどんの違うところは(と、「細かく切った干麺」「ラードで充分揚げる」「くずをかける」「ソース」「大皿に盛る(2~5人分)」などを表で紹介)。
ちゃんぽんは具と麺を同時に味わう料理ですが、皿うどんはラードで急速に調理した麺の風味を味う料理です。(中略)
麺をいためるのではなく、麺を揚げるという気持で油を使うことがコツです。”

昭和42年『長崎文化 第22号』(1967)には、「他県では皿うどんという名前をはばかって焼きそばという名で作り始めた。しかし長崎でも焼きそばという名前で提供する店がある、もっと誇りを持て」という内容の文が載っている。どうやら当時の長崎には、他県と同様にパリパリ細麺を「焼きそば」と呼んでる店があったようだ。

1967_長崎文化第22号

“焼そばという料理がある。これは他地方で皿うどんという名でこの種料理を作るのをはゞかって皿うどんと同種の物を焼そばという名で作りはじめたのである。それであるのに長崎の中華飯店に焼そばとあるのも解せないし、もっと長崎料理に誇を持てといってやりたいほどである。”

筆者はおそらく細麺を「皿うどん」と呼んでいて、それを念頭に書いたのだろう。昭和42年頃には、細麺の呼び名が「皿うどん」「焼きそば」入り混じっていたことが読み取れる。

「皿うどん」イコール細麺の時代へ

「皿うどん」イコール細麺として記述した初出は、私の調べた限りでは昭和43年『井手勝治のお料理読本 長崎の家庭料理』(1968, 2009年復刻版)だ。2009年に出版された同書の復刻版の「長崎皿うどん」のレシピでは、「チャーめん(中華細麺)」を揚げるように書かれている。太麺の存在については全く触れられていない。

1968_長崎の家庭料理

“長崎皿うどん
材料(3人分):チャーめん(中華細麺) 250g
(中略)
[作り方]
1.チャーめんを熱した油で色よく揚げ大鉢に盛っておきます。
2.鍋にラードを熱し豚肉・玉葱・キャベツ・筍の順に炒めスープを注いで調味します。いか・えび・はんぺん・ちくわを入れ、味加減をみて、もやし・葱を加え最後に片栗粉の水溶きを加えて濃度をつけ、よくかき混ぜて盛ったチャーめんの上にたっぷりかけて供します。(強火で揚げ、強火で炒めること)”

一方、太麺が皿うどんの主流として語られた最後の例は昭和47年『お料理専門誌マイクック 11月号』。「長崎旅情」と題した長崎の特集号で、表紙には皿うどんを食べる女性の写真が使われている。この皿うどんは、柔らかい太麺にあんを掛けたタイプの皿うどんだ。本当はカラー写真なのだが、長崎県立図書館に白黒コピー機しかなかったのが残念。

1972_お料理専門誌マイクック11月号1

本文中では四海楼三代目の陳名治氏が「上海航路より愛をこめて長崎チャンポン」と題して一文を寄せている。最後に皿うどんにも触れていて、チャンポンと同じ麺(唐アク麺)を使うと記している。

1972_お料理専門誌マイクック11月号3

“(ちゃんぽんの説明のあと)また、唐アク麺の上に、具を炒めて片栗粉のとろみをつけてかけたのが、皿うどんです。”

さらに白黒ページの座談会でも参加者の一人が太めの「皿うどん」に触れ、太麺が「もとからあったもの」と語っている。文中の「大麺」「小麺」は「太麺」「細麺」の意味だろう。

1972_お料理専門誌マイクック11月号4

“皿うどんも美味しいですね。大麺と小麺の二種がありますが、大麺がもとからあったものです。”

私が調べた限りだが、この雑誌以降太麺を長崎皿うどんの主流として紹介する例は見つかっていない。昭和50年代に入ると細麺の皿うどん一色になる。

昭和52年『味のふるさと2 長崎の味』(1977)の巻頭に掲載されている「皿うどん」のカラー写真は、揚げたパリパリ細麺の「皿うどん」だ。本文でも揚げ麺が「皿うどん」の主流という位置づけだ。

1977_味のふるさと 2 長崎の味 表紙

1977_味のふるさと 2 長崎の味2

“皿うどんも、具を同様にいため煮にするが、だしをチャンポンの半量ほどに減らし、調味には砂糖も入れて甘めに味をつけ、最後に水溶きした片栗粉でとろみをつける。これをラードで揚げためん(いためてもよい)にかける。”

昭和55年『伝えてゆきたい家庭の郷土料理 第2集』(1980)。「チャーめん」ではなく「チャン麺」と呼んでいる。写真は細麺で、こちらも揚げている。

1980_伝えてゆきたい家庭の郷土料理 第2集

“チャン麺を油で揚げ、炒めたいろいろの具を、水ときのかたくり粉でとろりとさせてかけます。”

同じ昭和55年に発行された『長崎の味百店』(1980)。巻頭写真の「長崎のチャンポン・皿うどん」は細麺の皿うどんだ。

1980_長崎の味百店

昭和57年『長崎の味づくし』(1982)も「皿うどんは、蒸籠で蒸したソーメンのような細い唐アク麺を油でいため、」と細麺のみ紹介。

1982_長崎の味づくし

昭和57年『よみがえる長崎の味 長崎の郷土料理』(1982)では細麺と太麺、両方の皿うどんレシピが併記されている。ただしメインはあくまでも細麺だ。

1982_長崎の郷土料理

“皿うどん
■作り方
(1) めんは皿うどん用の細い蒸し中華めんを使うが、ちゃんぽんめんを使ってもよい。具はちゃんぽんと同じ。
(2) めんの調理法は好みによる。
A.蒸し中華めんをざるにのせ、熱湯をたっぷりかけ、ふっくらしてくるので、ほぐしてからたっぷりのラードまたは油で焼目をつける。この時あまりかき混ぜないこと。この方法はめんが軟らかめである。
B.ラードまたは油をAより多く熱し、蒸し中華めんを揚げる。これはパリパリしている。
C.ちゃんぽんめんを炒めて使う”

太麺派だった『長崎への招待』の著者・嘉村国男は、昭和42年の第3版の次、昭和51年の第4版以降は「皿うどん」に言及しなくなる。平成2年『ながさきことはじめ』(1990)の「チャンポン」の解説で久しぶりに「皿うどん」に言及するが、「皿うどんも同じ」という一文のみ。すっかり細麺が主流になったためか、以前の熱量が嘘のようなそっけなさだ。

1990_ながさきことはじめ

“ちゃんぽんそのものはレッキとした長崎生まれ、もともと福建省あたりの麺類とスープが基本になっている中華軽食。(中略)長崎での発生時期は不詳だが四海楼ほか数店では明治中期過ぎ頃から作っていたようだ。ちゃんぽんには長崎独特の異国情緒というコンセプトが”ちゃん”といっ”ぽん”通っている。これこそ長崎味覚文化の粋というべし。皿うどんも同じ。”

昭和51年に浩宮殿下が四海楼で皿うどんを召し上がった。そう聞いた当時の人の多くは四海楼の太麺皿うどんではなく、すでに主流になっていたパリパリ細麺を思い浮かべたのかも知れない。そう考えると寂しい気がする。

皿うどんの時系列まとめ

ここでいったん、時系列を整理しよう。

  • 早くとも明治35~36年にチャンポン誕生
  • 明治38年に「チャンポン」「支那うどん」の新聞記事
  • 遅くとも大正5年には太麺の「皿うどん」が存在(「炒麺」の発祥時期は不明)
  • 昭和8年ごろには「皿うどん」が長崎に普及
  • 昭和11年には東京でも「皿うどん」を提供する店が現れた
  • 当初「皿うどん」は文字通り「うどん」として語られ、長崎でも太麺が主流だった
  • 店によっては昔から細麺を使っているところもあった
  • 昭和30年代には細麺の「皿うどん」が長崎で一般化し始める
  • 昭和43年には「皿うどん」イコール細麺のレシピ
  • 昭和47年が太麺メインの最後
  • 昭和50年代には完全に「皿うどん」イコール細麺になる
  • ただし長崎以外の老舗は今でも太麺皿うどんのまま

「皿うどん」イコール細麺になったのは、戦前どころか戦後だいぶ経ってからという事実は、多くの人にとって意外ではないだろうか? 昭和50年代以降は太麺は珍しいタイプとして扱われるようになる。「◯◯の皿うどんは、なんと太麺なんです」「地元には太麺を好む人もいます」といった具合に。

どうも鍵は昭和30~40年代にありそうだ。それまでの太麺皿うどんを押しのけてパリパリ細麺こそが長崎皿うどんとなるターニングポイントがあったに違いない。しかも長崎という地域限定で。一体、長崎に何が起こったのだろう?

(「第四章 パリパリ細麺が長崎皿うどんになった理由(わけ)」に続く)

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