【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(4/7)

第三章の続きです。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。


第四章 パリパリ細麺が長崎皿うどんになった理由(わけ)

なぜ昭和30~40年代にパリパリ細麺が長崎皿うどんの主流になったのか。なぜ長崎以外の老舗は太麺皿うどんのままなのか。料理名や内容が変化した他の麺料理を参考に、考えられうる仮説を幾つか立てて検証してみよう。

仮説その1、大規模チェーン

例えば「つけめん」。元祖とされる東池袋大勝軒や丸長のれん会では、「つけめん」ではなく「もりそば」や「つけそば」という名前で提供されていた。写真は東京都中野区「丸長 新井薬師店」のメニューだが、ここでも「つけそば」という品名だ。

丸長 新井薬師店 メニュー

それを「つけめん」と名づけたのは後発のチェーン店「つけ麺大王」だ。メシ通で刈部山本さんが執筆した記事『つけ麺ブームの立役者「つけ麺大王」総本店は、栄枯盛衰を乗り越え今なお独自に進化していた』(2017/12/06)に詳しいが、「つけ麺大王」がきっかけとなり「つけめん」という呼び方が定着したと言われている。

“── 大勝軒で提供されていた“つけそば”をあえて“つけ麺”と名付けた、と。
槇氏:中華の、ラーメンの麺という意味合いだと思うんですよね。そばというと日本そばのイメージに近くなってしまいます。大勝軒さんとの違いを出すように、ツルッとした感じにしたかったようです。”

もしかしたら細麺の皿うどんも同じように、長崎県内に普及させたチェーン店があるのではないか? 考えられるのはあの「リンガーハット」だ。同社の普及度や規模なら充分にありうる。

ちゃんぽんチェーン リンガーハット

しかしこれは簡単に否定された。公式サイトの沿革ページによると、同社がリンガーハットの1号店をオープンしたのは昭和49年(1974年)とある。当初は「長崎ちゃんめん」という屋号だった。

昭和49年(1974年) リンガーハット開業

「長崎皿うどん」の販売を開始したのはさらに遅く昭和56年(1981年)だ。時期的には細麺皿うどんが主流になったあとだ。リンガーハット並みに影響力がありそうなチェーンも探してみたが見つからず。大規模チェーン説はなさそうだ。

リンガーハット 沿革

仮説その2、老舗中華料理店

大規模チェーンではなく老舗の中華料理店ならどうだろう。四海楼に比肩するほど古い店が、細麺だけを「皿うどん」として提供していたら、その呼び名が普及しても不思議ではない。

長崎市 新地中華街

長崎の新地中華街を中心に市内の老舗中華料理店をリストアップし、一軒一軒「皿うどん」を食べ歩いてみた。カッコ内は創業年。ただ食べ歩くだけでなく、「太麺の皿うどんがメニューに記載されているか」「皿うどんを炒麺と漢字表記しているか」の2点に着目してみた。どの店も注文の際に太麺をリクエストすれば太麺皿うどんを作ってくれる。しかし今回は細麺の位置づけが目的なので、あえてメニュー記載の有無だけで判断した。細麺しか掲載していない店では「細麺でよろしいですか?」などの確認はされなかったことも付記しておこう。

  • 四海楼(明32, 1988): 太麺のみ。パリパリ細麺は皿うどんではなく炒麺。
  • 美天有(大1, 1912): 太麺なし。漢字表記なし。
  • 会楽園(昭2, 1927): 太麺あり。炒麺は皿うどんではなく「あんかけやきそば」を指す。
  • 新和楼(昭3, 1928): 太麺なし。皿うどんの漢字表記は炸麺。炒麺ではない。
  • 京華園(昭19, 1944): 太麺あり。細麺も太麺も皿うどん=炒麺という漢字表記。
  • 江洋楼(昭21, 1946): 太麺あり。細麺も太麺も皿うどん=炒麺という漢字表記。
  • 天天有(昭21, 1946): 太麺なし。漢字表記なし。
  • 康楽(昭23, 1948): 太麺あり。炒麺は皿うどんではなく「あんかけやきそば」を指す。

大正元年創業の「美有天」や昭和3年創業の「新和楼」が、細麺のみ記載というのは意外だった。細麺を「皿うどん」と呼ばないのは四海楼だけという点も興味深い。正直、数軒はあると思っていたのだが。

1912_美有天

そして着目したいのは「炒麺」という漢字表記。「炒麺」は「皿うどん」ではなく「あんかけやきそば」を指している店が複数あった。麺を固く焼いてはいるが、中心部は柔らかい焼きそばだ。

1927_会楽園_2

恐らく中国から来た料理人が、初めてみるパリパリ麺の「炒麺」を見て、”これはどう見ても「炒」めた「麺」ではない、きっと日本独自の料理「皿うどん」の派生だろう”と解釈し、太麺と同様に「皿うどん」と呼び始めたのではないだろうか。各店の創業年からすると、かなり早い段階で。

1948_康楽

昭和32年『あまカラ(74)』の「太ッとかと皿うどん」では「味覚が変わってきて、みんな細目のうどんを好むようになったので、お客の好みに調子を合せて、細くした」「そう言えば、昔から、店によっては細目のうどんを使っているところもあった」という記述があった。これらの老舗だけでなく、近所のチャンポン屋も同様だったろう。昭和30年代に長崎で細麺が普及し始めたのは、そういった飲食店によるものと思われる。

1946_江洋楼

しかし太麺も細麺もメニューに載せている店も多いし、太麺の「皿うどん」が人気という老舗もある。昭和30~40年代なら『あまカラ(74)』の山本健吉や『長崎への招待』の著者・嘉村国男のように昔ながらの太麺にこだわる人はもっといただろう。「皿うどん」の主流が完全に細麺へ移行するには、もっと決定的なきっかけが必要に感じる。

仮説その3、家庭向け商品

残る仮説は家庭向けの商品だ。かつて「支那そば」や「中華そば」と呼ばれた麺料理が「ラーメン」と呼ばれるようになったのは、日清食品「チキンラーメン」のテレビCMの影響だった。『ラーメンと愛国』(2011)で著者・速水健朗氏も「異論なき定説」と述べている。

ラーメンと愛国

“それまで「支那そば」「中華そば」と呼ばれることが多かったこの麺料理の一般名称が、「ラーメン」に切り替わり定着したのは、「チキンラーメン」のテレビCMによる影響だった。このことはすでに異論なき定説として定着している。”

パリパリ細麺の「皿うどん」にも同じように画期的な家庭向けヒット商品やテレビCMがあったとしたら、呼称が劇的に変化するだろう。そう考えて、長崎で販売されている「皿うどん」商品を洗い出し、一つ一つ発売時期や商品名を調べてみた。最終的にこれだと目をつけたのが「みろくや」の「長崎皿うどん」だ。先行する競合商品はあったが、そちらの商品名は「皿うどん」ではないので違うと判断した。

みろくや1

「みろくや」は長崎ちゃんぽん・皿うどんのメーカーで、その商品は主に土産物や贈答用として販売されている。東京駅丸の内北口近くの高架下には飲食店も出店している。

みろくや 東京駅 丸の内北口店

公式サイトの「みろくやの歴史」によれば、昭和42年(1967年)に「長崎名物皿うどん製造に着手」し、県外の物産展や海外への輸出を開始したと書かれている。「長崎ちゃんぽんの製造に着手」は昭和44年(1969年)なので、「チャンポン」より先に「皿うどん」が売られたことになる。

みろくやの歴史

“1967年(昭和42年)
長崎名物皿うどん製造に着手。
県外に販路を求め長崎県主催の長崎物産展に初参加。(三越本店)
ロサンゼルスにて開催された長崎県の見本市に参加。(長崎名物皿うどんの輸出開始)

1969年(昭和44年)
長崎ちゃんぽんの製造に着手”

ここに書かれた「長崎皿うどん」は、はたしてパリパリ細麺だったのだろうか。同社の公式サイトから直接問い合わせてみたら、すぐに丁寧な返信をいただいた。それによると昭和42年(1967年)に販売開始した『長崎名物皿うどん』は生麺で、揚麺の皿うどんの発売開始は昭和57年(1982年)とのこと。生麺の販売開始と、「皿うどん」イコール細麺のレシピが初出した時期が、ドンピシャで合致する。

IMG_5505_2

ここで長崎以外の方のためにちょっと補足しておこう。私も目の当たりにして驚いたが長崎では生麺の皿うどんが売られている。上の写真は新地中華街にある三栄製麺の店頭で売られていた生皿うどんだが、わざわざ中華街まで行かずとも、スーパーでも普通に生麺の皿うどんが購入できる。もちろんすでに揚げてある細麺を使う場合が多いが、家庭によってはこれを揚げるところから作り始めるのだ。さすが本場、長崎である。

みろくや3

時期的にはドンピシャだが、果たしてこれが正解だろうか。そういえば、みろくやでは太麺の皿うどんも販売している。みろくやからのメールでは「生麺」とだけ答えて、麺の太さには触れていない。当初の生麺がもしかして太麺の可能性は……と考えて、ハッと気付いた。

いやいや、太麺であるわけがない。もし太麺の生麺なら、それは「皿うどん」ではなく、まず「チャンポン」用の麺として売られるだろう。「みろくや」では「チャンポン」より「皿うどん」の販売が先だった。念のため「みろくや」に確認したら、現在販売している太麺皿うどんの麺はちゃんぽんと同じ麺を使っているそうだ。

みろくや2

なるほど、そういうことだったのか。家庭向け商品には「皿うどん用の太麺というのは存在しない」のだ。なぜならそれは「皿うどん」ではなく「チャンポン麺」だから。当たり前な話だ。「皿うどん」と「細麺」が完全にイコールで結ばれる。その認識がスーパーなどの小売店で商品を手に取る主婦層に広まり、それが当然と受け止められるようになる。家庭で日常的に皿うどんを消費する長崎でしか起こりえない現象だ。

そしてさらに決定的だったのはテレビCMだ。「みろくや持って通りゃんせ~♪」で始まり、「みろくやチャンポン、皿うどん~♪」で終わるCMソングは、地元の人に長年親しまれてきた。このCMについても問い合わせたところ、放送開始は1971年(昭和46年)、放送エリアは長崎県内のみだった。このCMにより「皿うどん」イコール「細麺」の認識が主婦層以外にも一気に広まり、定着したに違いない。

長崎で細麺皿うどんが主流になったことも、他県で太麺皿うどんのままだったことも、これですべてが納得できる。昭和40年代、高度成長とカラーテレビの普及、スーパーマーケットでの流通革命の時代。ヒット商品が次々と生まれ、大量生産・大量消費で世の中が大きく変化した。「チキンラーメン」により「ラーメン」という呼び名が定着したのと全く同じ現象が長崎で起きたのだ。

「長崎という地域限定」で「細麺皿うどんが主流になる画期的な出来事」とはなにか? それは長崎で放送された「みろくや」「皿うどん」のテレビCMだったというのが、私のたどり着いた答えだ。

(「第五章 「炒麺(チャーメン)」とカタ焼きそば」に続く)

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『【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(4/7)』に3件のコメントがあります。

  1. gu_zoni (保田 叔昭) says:

    丁寧なご調査とご考察、興味深く拝読しました。
    私は昭和24年長崎生まれで、昭和42年まで同地で育ちました。
    私が物心ついた時分にはすでに皿うどんは庶民の食べ物で、祝い事や客のもてなしなどで出前を取るのは決まって皿うどんでした。
    そのころは、天天有(てんてんゆ)という店が最も皿うどんのうまい
    店として通っておりました。そこの麺はひときわ細めのチャーメンで、
    ちょっと偏屈な親父が客の顔を見てから麺を揚げ始めるので、
    ずいぶん待たされる店としても名が通っておりました。
    一方中華街の諸料理は、同じ名称のものがあっても中国の料理という感覚が強かったように記憶しています。
    ちなみに、ちゃんぽんは、四海楼が発祥という知識はみな持っていましたが、もっぱら町の中華料理屋やラーメン屋のメニューで、ラーメンがうまければちゃんぽんもうまいという話も広まっていました。
    そんなわけで、かつて長崎の住民であった自分に言わせてもらえば、ブログにある皿うどんの認識の広がりという話は、時期的に、少なくとも10~20年は遅いと思います。

  2. SaltyDog says:

    gu_zoni (保田 叔昭) さん、貴重な証言ありがとうございます! 私の考察はあくまでも余所者の試論的なものなので、地元の方による指摘はとても嬉しく思います。
    思案橋通りの「天天有」さん、私も先日行きました。色白の極細麺と粘り気の高い麺が印象的でした。たしかにメニューには細麺しか記載していませんでしたから、昔から皿うどんイコール細麺のお店だったんでしょうね。昭和30年の前半に細麺も皿うどんと呼ばれていたのは、こういうお店があったからだろうなと思います。
    「中華街の諸料理は、同じ名称のものがあっても中国の料理という感覚が強かった」という感想も、地元の方ならではですね。参考にさせていただきます。本当にありがとうございました。

  3. SaltyDog says:

    gu_zoni (保田 叔昭) さんの「ブログにある皿うどんの認識の広がりという話は、時期的に、少なくとも10~20年は遅い」との感想を受けて調べ直したところ、昭和32年には細麺の皿うどんが一般化していたことをうかがわせる資料を見つけました。それを受けて第三章の時代考察や第四章の論考の一部を変更しました。貴重な証言、ありがとうございました!
    https://yakitan.info/archives/saraudon-history-3

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