【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(5/7)

第四章の続きです。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。


第五章 「炒麺(チャーメン)」とカタ焼きそば

長崎でパリパリ細麺の「炒麺(チャーメン)」が「皿うどん」と呼ばれるようになった時期と理由は判明した。続いては時間軸の逆方向、「炒麺(チャーメン)」の起源を掘り下げてみよう。

「炒麺(チャーメン)」はいつから存在したのか

第二章で太麺の「皿うどん」が大正5年に存在したと書いたが、「炒麺」の発祥時期は不明なままだ。調査の足がかりとして、第一章で紹介した「皿うどん起源神話」の「チャンポンから皿うどん」「皿うどんから炒麺(チャーメン)」という順序をまずは検証したい。

四海楼 皿うどんの由来

前段の「チャンポンから皿うどん」に関しては、特に異論はない。料理として同じ系譜にあるのは明らかだし、明治38年には「チャンポン」が存在して「支那うどん」と呼ばれていたことを踏まえると、「チャンポン」が先にあり、太麺の「皿うどん」がそこから派生したのは間違いないと私も思う。

問題は「皿うどんから炒麺」という後段だ。正直、私が抱く皿うどん起源神話への違和感は、全てこのパリパリ細麺の「炒麺(チャーメン)」の出自に集約される。

「炒麺(チャーメン)」は中国各地に点在する焼きそば的な麺料理の一般名称だ。しかし長崎・四海楼のそれは麺を揚げて餡を掛けるという点で特殊だ。第一章で紹介したが、四海楼四代目の陳優継氏は著書『ちゃんぽんと長崎華僑』で次のように書いている。

“いかにも中国料理のようだが、この揚げ麺は中国にはない長崎のオリジナルな麺である。これもちゃんぽん同様、平順考案の麺料理なのである”

確かに中国には様々なタイプの「炒麺」があるが、このような揚げ麺に餡を掛けたスタイルの「炒麺」は存在しない。それが「長崎のオリジナルな麺」「ちゃんぽん同様、平順考案の麺料理」と見做されてきた大きな理由だろう。

明治36年、横浜の「炒麺(しゃめん)」

長崎の「炒麺(チャーメン)」がいつ現れたのかは不明だが、ちゃんぽん発祥と同時期の横浜にも「炒麺」という料理が存在した。明治36年『横濱繁盛記』(1903)の「南京町」という章で、「各色炒麺(やきそば)」と紹介されている中華料理、当時の呼び方でいえば支那料理だ。「やきそば」の仮名書きとともに、「炒麺」には「しゃめん」とルビが振られているから「チャーメン」と同じ発音だったと考えてよいだろう。

1903_横浜繁盛記

小料理屋では各色炒麵(やきそば)、海鮮炒寶(焼肴)、銀絲細麵(南京そば)、牛肉大麵(牛そうめん)などという色々のビラが出て居る

この「炒麺(しゃめん)」「やきそば」とは一体どんな料理だったのか? 長崎を一旦離れ、明治36年の横浜にあった「炒麺」「やきそば」について考察してみよう。

横浜中華街

横浜の中華街は広東の出身者、長崎の中華街は福建の出身者が多いというのはよく知られている。そのため横浜や東京の老舗中華料理店は広東系の店が多い。それらの店で「炒麺」「やきそば」といえば、あんかけタイプが出てくる。以下は私が実食して確かめた戦前創業店のリストだ。

今でこそ、五目あんかけ焼きそばは醤油味が主流だし、麺が太い店も多い。しかしこれら戦前に創業した広東料理店の多くは細麺で、「ごもくやきそば」も塩味ベースなのがほとんどだった。その中の一軒、横浜にある大正7年創業「奇珍」(1918)の「やきそば」をご覧いただきたい。

1918_奇珍のやきそば1

パリパリに揚げた細い麺を堆く盛り付けた上に、食材を強火で炒めてスープで煮込み、片栗粉でトロミを付けた餡を掛けてある。揚げ麺やカタ焼きを指定したわけではなく、この店では「やきそば」といえばこのスタイルのカタ焼きそばなのだ。

1918_奇珍のやきそば2

具はモヤシを中心とした野菜と豚肉・蒲鉾・魚介類。餡の味付けは醤油ではなく鶏ガラ+塩ベース。砂糖を入れているのかかなり甘い。細部はともかく、全体的に長崎で供されているパリパリ細麺の「皿うどん」に瓜二つだ。少なくとも無関係とは思えないだろう。

1931_海員閣_メニュー

「奇珍」のほかに立川の「福来軒(大1, 1912)」も揚げた麺の焼きそばしかない。横浜中華街の「海員閣(昭6, 1931)」も「楊州炒麺」の写真の通り、「炒麺」イコール「カタ焼きそば」だ。

1931_海員閣_揚州炒麺

私を含め「炒麺」「やきそば」と聞くと、その名前からつい柔らかい麺を想像してしまう。また柔らかい麺と硬い麺を選択可能な店では、わざわざ「カタ焼きそば」を「炸麺」と表記している店もある。そのため「カタ焼きそば」は柔らかい「炒麺」のオプションくらいの認識だろう。

しかし「炒麺」「やきそば」が揚げ麺の「カタ焼きそば」を指すのは戦前の支那料理店では珍しくなかった。いや、むしろ「カタ焼きそば」が主流だった。実際、私が挙げた広東料理の老舗リストに「カタ焼きそば」しかない店はあっても「カタ焼きそば」を選べない店は皆無だ。

戦前の「炒麺」は揚げ麺が主流だった

戦前の支那料理の「炒麺」「やきそば」は揚げ麺が主流だった。その証拠として当時のレシピを参照してみよう。『お好み焼きの戦前史』の著者・近代食文化研究会さんが1884年から1957年までに出版された中華料理(当時は支那料理)のレシピ本、199冊を調査したリストが手元にある。焼きそばのレシピが1つでも載っているのが37冊。調理法の内訳は「麺を焼く」が8冊、「麺を炒める」が12冊に対して、「麺を揚げる」のが17冊で最も多い。

いくつか実例をあげよう。例えば大正15年『手軽に出来る珍味支那料理法』(1926)。「揚州炒麺(ごもくやきそば)」の「こしらへかた」には「麺をたっぷりのラードで狐色に焦げるまで揚げる」よう書かれている。同書には他にも数種類「炒麺(やきそば)」レシピが載っているが、全て同様の「カタ焼きそば」だ。

1926_『手軽に出来る珍味支那料理法』

先ずフライパンにラード八分目位を煮溶かし、充分煮立ちたる時、支那麺をよく解して油に入れ、狐色位に焦げたらば揚げて、深き皿(スープ皿)の如き物に盛り置く、別に鍋にスープを入れ其の中にて筍を薄切りしたるもの、日本葱斜切りしたるもの、焼豚肉の薄く大きく切りたるものを、適當なる鹹味にて煮込みよく煮へたる頃、片栗粉茶匙十杯位を水溶きしたるものを加へてドロゝとし、焼麺(やきそば)の上から餘り汁の多からざる様にかけます。斯くして卵二ツ切にしたるもの蟹肉等を適宜に按配し、青豆を振りかけ、少量の食酢をかけ、箸をつけて供します。

昭和3年『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』(1928)、「十六 支那麺(そば)の茹方(ゆでかた)と焼方(やきかた)」の「焼麵(やきそば)」も麺を揚げるよう書いてある。

1928_『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』2

次に焼麵(やきそば)について申上げます。麵(そば)を焼きますにはラードが相當の量だけ入要ですから焼麵をするときは可成(なるべく)、ラードを用意しておいてください。
先ずフライパンにラード八分目くらいを煮溶し、充分油の煮立ちたる時、麵(そば)をよく解いて入れ、箸で撹廻(かきまわ)し乍(なが)ら、入れた麵(そば)が狐色になりましたならば、よく油を切つてスープ皿の如きものに盛り置きます。

その麺を使った「揚州炒麵(ヨースチャーメン/ごもくやきそば)」の作り方も、あんかけの「カタ焼きそば」そのものだ。しかも味付けについて「絶対に醤油を使うな」(絕對醤油の使用を禁ず)とも書いてある。醤油餡が多い現代の「五目カタ焼きそば」とは真逆なのが興味深い。

1928_『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』3

先ず焼麺(やきそば)は已に記述せる方法にして拵へ、スープ皿の如き廣き皿に盛置く。別に筍を短尺薄切としたるもの、長ネギ斜切としたるもの、豚肉薄切したるもの等を、鍋に入れスープと塩味丈けにて煮込みます。(絕對醤油の使用を禁ず)充分煮へたる頃、片栗粉水溶きしたるを入れ汁をトロリとさせ、熱き中に、作り置きたる焼麺(やきそば)の上にかけ、茹卵二つ切したるもの一つ宛、蟹肉は適量宛を配置し、青豆をバラバラと配らひ胡椒をかけ、食酢をかけて、箸をつけて供します。

昭和4年『料理相談』(1929)の「支那焼きそば」。これも餡の作りかたを説明した上で、麺を揚げるように書いてある。

料理相談1

別にフライパンにラード(豚脂)を八分目程煮立て、よく支那麺を解(ほぐ)ぐし乍(なが)ら、一人前位宛入れて油焼き致します。狐色程度になりましたら、何か灰篩(はひふるひ)の如きもので麺を掻き上げ油をよく断(き)つて皿に盛りつけて置きます。

戦前の「炒麺」「やきそば」のレシピの約半数が、このように麺を揚げて餡を掛けるという調理法だ。現代の感覚からすると信じがたく、私も知って驚いた。しかしこれが、横浜が南京町と呼ばれていたころの標準的な「炒麺」「やきそば」なのだ。明治36年横浜の「炒麺」「やきそば」も揚げ麺だった可能性が高い。少なくとも揚げ麺がオプションとして必ずあったはずだ。

「カタ焼きそば」と「細麺皿うどん」は本当に違うのか

さて、長崎へ戻ろう。横浜も長崎も「炒麺」ではややこしいので、ここからは横浜の「炒麺」は「カタ焼きそば」、長崎の「炒麺」は「細麺皿うどん」と表記する。

仮に四海楼の「細麺皿うどん」の説明が正しかったとしよう。「チャンポンから皿うどん」が派生し、「皿うどんから細麺皿うどん」が派生した。「カタ焼きそば」と「細麺皿うどん」は「炒麺」という同じ名前で実物も酷似しているので無関係とは思えない。すなわち長崎の「細麺皿うどん」が横浜へ伝わって「カタ焼きそば」が現れたとする。

その場合、時間的な矛盾が生じる。第二章で検証した通り、「チャンポン」の発売開始は早くても明治35~36年。横浜の「カタ焼きそば」「炒麺(しゃめん)」が存在したのは明治36年。「チャンポン」の誕生から1年前後で「皿うどん」「細麺皿うどん」が生まれ、さらに横浜にまで伝播するだろうか? さすがにそれはありえない。

シンプルに考えれば、横浜の「カタ焼きそば」と長崎の「細麺皿うどん」は、名前も調理法も全く同じ「炒麺(チャーメン)」という料理だったのだ。当たり前過ぎて拍子抜けしそうだが、そう考えるのが最も矛盾のない解釈ではないだろうか。

「唐灰汁(トーアク)」について

横浜の「カタ焼きそば」と長崎の「細麺皿うどん」は本当に違う麺料理なのか、細部も検証してみよう。まず「唐灰汁(トーアク)」について。「細麺皿うどん」と「カタ焼きそば」の相違点について論じる場合、この「唐灰汁(トーアク)」の使用・不使用が必ず俎上に上がる。

「チャンポン」や「細麺皿うどん」の麺作りに欠かせないのが「唐灰汁」だ。中華麺独特のコシや食感は、小麦粉と水にアルカリ性の添加物を加える必要がある。一般的には「かんすい」を使うが、「チャンポン」や「細麺皿うどん」用の麺には、長崎県内でのみ許可されている「唐灰汁」を使用する。

唐灰汁1

「唐灰汁」がどんな品なのか、実際に長崎の新地中華街で購入してみた。白い粉を固めたような塊で、60グラム120円。もち米一升に対してこれを使い、ちまきなどを作るそうだ。もちろん「チャンポン」「細麺皿うどん」の製麺時にもこれを使う。

唐灰汁2

平成6年『長崎町人誌 第4巻 さまざまのくらし編(食の章2)』(1994)では、「チャンポン」と「ラーメン」は何点かあるとしつつ、特に「唐灰汁」と「かんすい」の成分構成が真逆な点を指摘している。

1994_長崎町人誌_第4巻

特に唐アクは長崎県独特のもので、長崎県のみが製造を許可していて、他県では簡単に製造出来ない”独占品”であり、その基準は、固形水分を含んでいて
◯炭酸ナトリウム – 90%
◯炭酸カリウム – 5~10%
◯リン酸カリウム(入れても入れなくてもよい)
などとなっている。
ラーメンとの違いは「唐アク」の代わりに「かんすい」を使うことになっており、その「かんすい」は△炭酸カリウムが90%△炭酸ナトリウムが5~7%が基準で、「唐アク」とは炭酸ナトリウムと炭酸カリウムの分量が全く逆になっている。

私も「チャンポン」「細麺皿うどん」と他地域の中華麺との大きな違いが、「唐灰汁」であることに異論はない。ただし現代に於いては、だ。明治36年当時はどういう状況だったろう? 同書『長崎町人誌 第4巻』では次のように語られている。

1994_長崎町人誌_第4巻10

昔は、中国奥地の鹹湖(かんこ)に産する天然製の塊状のものを上海経由で輸入して業者に卸した。
その後は輸入もままならず、それなら、というので、行政の厳しい規制の中で、カンスイ(トーアク)の製造が始まった。
(唐灰汁の使用方法に続けて)以上のように中国、つまり「唐」の天然生産物である石塊状の、「鹹水または梘水(かんすい)」を輸入して、これを食品に使用するのに、液状にしたものが、「唐灰汁(トーアク)」である。

「中国奥地の鹹湖(かんこ)に産する天然製の塊、主成分は炭酸ナトリウム」。それが本来の「唐灰汁(トーアク)」で昔は上海から輸入していたが、後に輸入が途絶えて人工的に製造し始めたという。「カンスイ(トーアク)」「鹹水または梘水(かんすい)」と書いている点にも注目したい。

一方、明治36年ごろの横浜では中華麺を作る際にどのような添加物が使われていたのか? 『にっぽんラーメン物語』(1998, 小菅桂子)の「第五話 カンスイなくしてラーメンなし」では、アルカリ物質を大量に含んだ「鹹湖(かんこ)」の水を固形化した「鹹石(かんせき)」について説明したあと、次のように書いている。

にっぽんラーメン物語_1

その鹹石が日本に入ってきたのは明治時代のことであった。明治四十三年(一九一〇)に開店した浅草の来々軒のそばは開店当初から鹹石を使っている。
また大正十一年(一九二二)に、札幌の北大前に開業した竹家食堂でも、横浜の荷札をつけた鹹石が、店の隅によく置いてあったことを竹家食堂の二代目であった大久隆(のぼる)さんは子供の頃の記憶としておぼえているという。
来々軒は創業時から、竹家食堂は開店まもなくから中国人のコックが働いており、麺打ちは彼らの仕事であった。ということは、彼らは当たり前に、故郷で習い覚えた鹹石を使って麺を仕立てていたのであろう。

浅草の来々軒も札幌の竹家食堂も、横浜中華街から中国人コックを連れてきて雇っていた。そして横浜の荷札をつけた鹹石があった。横浜の中華料理店でも当然、鹹石が使われていたことになる。そしてその後にこうも述べている。

そんなことで中華そば時代は中国から輸入した鹹石という天然アルカリの塊を使用していた。しかし戦争によって輸入が中断されると、当時の物資不足、加えて法的規制がなかったこともあって、これ幸いとばかり洗濯ソーダが、代用カンスイの座を占めることになる。

また長崎の唐灰汁(唐灰)にも触れ、次のように述べている。

にっぽんラーメン物語_2

この唐灰、他県では「カンスイ」という。しかし長崎では昔からの呼び名である「トウアク」といういい方をそのまま踏襲している。

長崎の「唐灰汁」は、他県では「カンスイ」と呼ばれる鹹石(天然カンスイ)のこと、と断定している。明治・大正時代の横浜や東京で中華麺を作る際には、それを使用していた。つまり明治・大正時代に限って言えば、「唐灰汁」も「かん水」も同じモノを指していた。明治36年ごろの段階では、長崎と横浜の間に「唐灰汁」「かんすい」の差異は無かったのだ。

カタ焼きそばとソース

「細麺皿うどん」と「カタ焼きそば」が異なる点として、四海楼ちゃんぽんミュージアムでは「ソース」にも触れていた。この点についても検証しよう。

四海楼 『皿うどん』のルーツ

一説には当時、外国からソースの輸入が盛んになるとともに国内でも盛んに生産されるようになり平順は、このソースの持ち味をベースに新しい味の料理をと考えたと言われています。現在でも長崎の人は「皿うどん」に長崎独特のソースをかけて食しています。

確かに長崎では「細麺皿うどん」にウスターソースがつきものだ。中でも定番はチョーコー醤油の金蝶ソース。公式サイトの説明では『皿うどん発祥の店とされる「四海楼」の創業者、陳平順さんにも、何度もアドバイスを求めたそうです』とまで書かれている。飲食店でも当たり前のようにソースが出され、地元の人は好みの量を掛けていた。

チョーコー醤油 金蝶ソース

しかし、揚げ麺の焼きそばにウスターソースを掛けるのは本当に長崎の「細麺皿うどん」に限られているのだろうか? 実は長崎以外で揚げ麺の焼きそばにウスターソースを掛ける事例を、私は2つ知っている。一つは三重県松阪市の不二屋。創業は1929年(昭和4年)で、昭和32年から揚げ麺の「やきそば」を提供している。こちらでは「やきそば」にウスターソースを掛けるのが定番の食べ方とされている。

三重県松阪市の不二屋 やきそば

もう一つの事例は長野県松本市の上土町にあった本郷食堂。創業は昭和元年。こちらの「焼そば」も柔らかい部分はあるが麺を揚げたあんかけ焼きそばで、配膳時に「お好みでどうぞ」とウスターソースを渡された。長野県には横浜をルーツとする独特なあんかけ焼きそば文化があり、通常は酢とカラシを混ぜた「カラシ酢」が添えられる。それがこちらではウスターソースだったので、ちょっと驚いた記憶がある。

松本市上土町 本郷食堂 焼そば

この2店が特殊な例と思われるかも知れないが、実は意外とそうでもない。戦前は確実にもっと多かったはずなのだ。先ほど紹介した昭和3年『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』(1928)では、「揚州炒麺」の調理法の最後にこう添え書きがある。

1928_『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』4

尚(なお)焼麺(やきそば)は普通食酢を掛けて食するも、酢のみにて不足の人はソースを掛けて食するも差支えなく、(後略)

昭和4年『料理相談』(1929)の「支那焼きそば」も揚げ麺の焼きそばにソースを掛けることについて言及している。

料理相談2

近頃焼そばにはソースをかけて食べる方が日本人には美味しいと申される方が多くなりました。ご参考までに申添えておきます。

昭和8年『簡単に出来る家庭向支那料理三百種』(1933)の「五目焼そば(什錦炒麺)」。これも麺を揚げるカタ焼きそばで、好みで醤油またはソースを掛けるように書いてある。

1933_簡単に出来る家庭向支那料理三百種P71

好みによつて醤油味を加へてもよく又、ウスターソースなどをかけて召上がっても美味しいものです。

37件ある「炒麺」「やきそば」レシピ中、ソースを掛けるのは4例なので割合は多くない。だが、長崎の「細麺皿うどん」だけでなく、「カタ焼きそば」もソースを掛けて食べることがありえたことは分かっていただけよう。

加えて「焼売」にソースだと格段に事例が増える。49の「焼売」レシピ中、ソースを掛けるのは約半数の24例だ。当時の支那料理店のテーブルにソースが置かれていたことは容易に想像できるし、眼の前にソースがあれば「カタ焼きそば」に掛ける人も多かったことだろう。

どちらも同じ「炒麺」という料理だった

明治36年に横浜の南京町で存在した「カタ焼きそば」。時期は不明だが長崎で四海楼が提供し始めた「細麺皿うどん」。その相違点を検証すると、「カタ焼きそば」と「細麺皿うどん」の違いがスーッと消えてしまった。もちろん現在の「カタ焼きそば」は人工かんすいを使った麺で醤油餡が多く太麺もある。チャンポンと同じ具やスープを使う「細麺皿うどん」とは味付けも麺も異なる。しかし当初、その差はなかったのだ。

麺を揚げてトロミの付いた餡を掛ける調理法。「唐灰汁」イコール「天然かん水」を使った製麺。ソースを掛けるという食し方。どれも同じではないか。そう。「カタ焼きそば」も「細麺皿うどん」も、本来は全く同じ、「炒麺」という麺料理だった。長崎以外の老舗がパリパリ細麺を「やきそば」と呼ぶのも、「炒麺」に対する一般的な訳語だったからに過ぎない。それが私の結論だ。

さあ、最後に残った謎は麺を揚げた「炒麺」の生まれた場所と時期だ。横浜の「炒麺(しゃめん)」は明治36年。四海楼の創業は明治32年。麺を揚げた「炒麺」を生んだのは横浜か、それとも長崎か?

私の答えはどちらでもない。麺を揚げた「炒麺」は海外から伝来したと考えている。もちろん中国からではない。正反対の海の彼方、アメリカだ。

(「第六章 「炒麺(チャーメン)」はどこから来たのか」に続く)

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