聘珍樓 横濱本店
2020年の5月現在、首都圏は新型コロナウイルスによる緊急事態宣言下にある。都道府県をまたぐ移動や夜8時以降の飲食店営業は自粛するよう要請されている。全国の焼きそばを食べ歩く、という主旨の当ブログは開店休業状態だ。
私個人は近所のテイクアウトや家庭用の商品で焼きそばを食べてはいるが、当ブログの主眼はあくまでも店で焼きそば食べること。これまで以上に更新が滞ってしまうのは仕方ない部分もある。『焼きそばの歴史』の下巻の執筆も、図書館が閉鎖されているため資料集めがままならず、予定していた6月上梓は大幅に遅れそうだ。
その下巻の調査も兼ね、新型コロナで緊急事態宣言が発令される前、3月中旬に横浜中華街の聘珍樓を訪れた。今回はその際の訪問記である。
聘珍樓は日本で現存する最古の中華料理店だ。創業は今から136年前、1884年(明治17年)とされている。同店が写っている明治時代(あるいは大正初期)の絵葉書を入手したので、往年の雰囲気を伝えるために掲載しておこう。
実際には聘珍樓の正確な創業年は不明である。1884年というのは、昭和9年(1934年)に『横浜貿易新報』で「聘珍樓は創業50年」と書かれた記事から、逆算した年なのだ。とはいえ明治32年の新聞に同店の記事があり、多少は前後したとしても明治17年から大きくずれることはないだろう。
さて、「焼きそば」の歴史を溯ると、中華料理に行き着く。ソース焼きそばも元々は中華料理、戦前は支那料理と呼ばれたそれがルーツなのは間違いない。当ブログでも各地の老舗中華料理店を取り上げてきた。もちろん聘珍樓も外せないのだが、格式も価格も普段食べ歩いている店とは段違いなので、これまで躊躇していたのだ。ただ、焼きそばの歴史を記す際に外すわけにはいかない。
聘珍樓を訪れたのは3月中旬、小雨の降る土曜のお昼時。1月ほど前の春節の時期にも訪れたが、この日も新型コロナウイルスの影響で、横浜中華街は閑散としていた。本来なら団体客を大勢迎え入れているであろう聘珍樓も空いている。1階ロビーで待機する客もおらず、同店の歴史を示す写真や、特別巨大な高級乾物=「乾貨」を帰りにじっくり見学できた。
この日は予約をせずに訪れたが、「二人です」と告げるとすぐに案内された。接客担当の女性に伴われて、エレベーターで3階の個室へあがる。丸テーブルには箸とナプキン、メニューが置かれていた。見上げるときらきら光るシャンデリア。こういう部屋で落ち着ける人間になりたいものだ。
聘珍樓は歴史だけでなく味にも定評がある広東料理店だ。本来ならフカヒレの姿煮やアワビの煮込みなんぞを食べてみたいのだが、懐事情がそれを許さない。焼きそばが目当てということで、注文はアラカルトからピックアップしてみた。ちなみに料理は全て配膳係のスタッフが取り分けてくれる。料理の写真は、取り分ける前に一言断って撮らせていただいた。
まず期間限定メニューから、本日のおすすめサラダのひとつ、シェフサラダ(2,200円)をオーダー。エビとアボカド、きくらげをふんだんに使ったサラダで、揚げたマイタケや揚げたワンタンの皮が、風味と食感にアクセントを加えている。中華料理は本来、生野菜を食べないはずだが、サラダやサシミをメニューに取り入れているのは、この店の懐の深さだろう。老舗の余裕を感じる。
続いて点心を2種、「海老入り蒸しぎょうざ」(2個380円)と「蟹肉とフカヒレの包み蒸し」(2個440円)だ。前者は「蝦餃」という定番の点心。半透明の生地は「浮き粉」が使われているとか。そこに赤い身のエビがうっすら透けて見える。
中国語版のWikipediaでは、「蝦餃」について広州の新聞『羊城晚報』の記事に基づき「誕生時間在1920年至1930年之間」(1920~30年頃に生まれた)としている。しかし長谷川伸『ある市井の徒・新コ年代記』によると、明治時代の横浜中華街(当時は南京町と呼ばれた)で、すでに「蝦餃」が提供されていたらしいのだ。
間もなくおやじは饅頭の皿と焼売(しゅうまい)とハーカーの皿とを置いてゆく(新コは東京に広東や京蘇(きょうそ)の料理店が出来、又、雲吞(わんたん)・焼売(しゅうまい)とも馴染み深いものになったが、色の白い海月(くらげ)形の、中に小海老がはいっていたと憶えているハーカーにはお目にかからない)
「色の白い海月(くらげ)形の、中に小海老がはいっていた」という「ハーカー」は、「蝦餃」そのものの描写だ。「蝦餃」は北京語だと「Xiā jiǎo」≒「シア・ジアオ」だが、広東語だと「Hā Gáau」≒「ハー・ガウ」と発音する。また「饅頭」「焼売」と同様に提供されていることから、点心の一種なのも間違いないだろう。長谷川伸が訪れたのは明治30年頃の「遠芳樓」という店だが、もしかしたら同じころに聘珍樓でも「ハーカー」を提供していたかも知れない。
また、大正2年『経済時報 十一月號』の「南京蕎麥屋」というコラムにも、「ハーカー」の名が現れる。
行商の中でもシーマイ専門に賈って居るのとシーマイの外にハーカーに豚蕎麥、燻豚肉に鳥蕎麥の四種位出來るのがあるがこれは稀れで何と云てもシーマイが一番可く賈れる
「シーマイ」はもちろん「シューマイ」のこと。「燻豚肉」は恐らく「チャーシュー」だろう。「豚蕎麥」「鳥蕎麥」は中華そばの類だ。それらと並んで「ハーカー」も売られていたという。「これは稀れ」というが、大正2年=1913年には「ハーカー」「蝦餃」を提供する屋台があったのだ。
「蝦餃」に齧り付くと、プリッとした歯ごたえとエビの風味が口の中に溢れた。素材の味わいをストレートに生かした、シンプルな美味しさだ。「蟹肉とフカヒレの包み蒸し」も、濃厚な味わいとコリっとした食感が楽しかった。点心メインの飲茶ランチが人気なのもうなづける。
それから「上湯燉花菰・花椎茸の蒸しスープ」(2名様用、1,800円)。なぜわざわざスープを頼んだのかというと理由がある。中華料理に特化したWebメディア『80c(ハオチー)』に「中国全省食巡り」という連載があり、それを私は愛読している。その第3回、「広州で食べるべき料理3選」の筆頭がスープなのだ。
広州生活を始めてまず驚かされたのは、広州人の湯(スープ)に対するこだわりだ。周りの広州人に「オススメの広東料理は?」と尋ねると、かなりの高確率で「湯(タン)!」と即答されたのである。
特に「燉湯(ドゥンタン)」、『茶碗蒸しのように水と具を入れた容器を、更に大きな鍋の中で蒸して加熱するスープ』を味わうべきだと、筆者・酒徒さんは書いている。さらにこちらのサイトによると、椎茸を使った「燉湯(ドゥンタン)」が最も代表的なものらしい。というわけで、今回注文してみたのだ。
啜ってみると、未経験の味覚……いや、一度だけロンドンで経験したことのある味わいだ。ロンドンでは「漢方薬のような風味だが正直味が薄い」と感じた。今回も薄味に感じ、正直これを素直に美味しいとまでは思えない。しかし、「これはヤバい味わいなのでは」という予感を覚えた。スポーツの素人はプロとあまりに技術の差がありすぎて、プロの何が凄いのかが分からないことがままある。それと似たような感覚だ。ビールを初めて「美味しい」と感じる瞬間があったように、このスープの真価を知るには、さらに経験が必要なのだろう。今は、広東料理の奥深さの一端に触れた想いだけで良しとしておこう。
お次は期間限定メニューから、海老のチリソース(干焼蝦仁/1,600円)。陳健民が敷衍させたケチャップ味ではない、本来のエビチリだ。こちらは素直に美味しい。親しみやすい味わいの奥に深味を感じる。白いご飯が欲しくなる。
そして目的の焼きそばだ。聘珍樓の「焼きそば(炒麺)」は、「什錦炒麺(五目焼きそば/1950円)」「牛腩炒麺(牛バラ肉焼きそば/2100円)」「海鮮炒麺(海鮮焼きそば/2400円)」の3種がアラカルトのメニューに載っている。また季節限定メニューには「海鮮入りXO醤陶板焼きそば(3900円)」というのもある。その中から選んだのは、最もノーマルであろう、「什錦炒麺(五目焼きそば)」だ。焼き方は「普通」と「カタ」があり、あえてカタ焼を選んだ。
横浜開港資料館には、昭和10年頃の聘珍樓のメニューが残されており、そこには「揚州炒麺(ごもくやきそば)」や「肉絲炒麺(ぶたのやきそば)」など、6種類の「炒麺」が記載されている。戦前の中華料理店の焼きそばはあんかけ、特にカタ焼きそばが標準的だった。当時の聘珍樓のレシピは残っていないが、恐らくそれら6種の「炒麺」もカタ焼きが標準だったのではないかと思う。カタ焼を指定したのは、そんな理由からだ。
麺はやや太め。エアリーでサクサクに揚げられている。水分を浸みこみやすいようで、餡と接している部分はすぐに軟らかくほぐれてゆく。餡はやや甘めの醤油餡で、上品な味わいだ。具は豚肉、海老、貝柱、イカ、叉焼。さらに青梗菜、きくらげ、ニンジン、筍。豪華な具の中でも、特に叉焼はすごい。件の「広州で食べるべき料理3選」では、2番目に「焼味(シャオウェイ)」が挙げられている。叉焼はもちろんその「焼味」の代表格だ。
日本の中華そばに乗っている叉焼は、醤油ダレで煮込まれている品が多い。それに対して広東料理の本来の叉焼は、しっかり炉で焼かれたものだ。表面がテカテカ光る「蜜汁叉焼」は、甘い蜜が肉まで滲みていて、凝縮された旨味と甘味に陶然となる。今度来た時は、この叉焼を単品で注文したくなった。
最後はデザートに「福至蛋撻/フォーチュン・エッグタルト」(500円)と、「鮮果西米露/季節のフルーツ入りタピオカココナッツミルク」(900円)。エッグタルトはサクサクのパイ生地と玉子の芳醇な風味が素晴らしい。タピオカミルクはフルーツの風味を生かした品のある甘さだ。温かい烏龍茶と共に、最後の最後まで老舗の味を堪能した。消費税やサービス料を含めると二人で13000円弱という、超豪華なランチになったが、金額に見合う貴重な体験をできた。
ところで創業136年を誇る聘珍樓だが、経営者は何度か変わっている。横浜開港資料館編 『横浜中華街 – 開港から震災まで : 落葉帰根から落地生根へ』によると、「1920年頃には張茂元という人物が経営していたが」、「(昭和9年/1934年)当時の経営者は鮑荘昭で三代目となっている」。また、「1937年に日中戦争が勃発すると、鮑荘昭は横浜を離れ」「店は金鉅が引き継いだ」とある。「金鉅」とは、「鮑荘昭」の次男「鮑金鉅」のことだ。
さらに戦後、1960年頃に聘珍樓を引き継いだのが、龐柱琛(パンチュウシン)氏だ。氏は1972年に帰化して「林達雄」という日本名になった。その後、1975年にご子息の「林康弘」氏が7代目社長に就任した。『有隣 第448号』(平成17年3月10日)の座談会では、「林康弘」氏が次のように述べている。
私の父は龐[バン]柱琛といいまして、19歳のとき、広東から横浜へ来て料理人として働いていました。 父は、戦後まもなく、父と親しかった鮑という人が今の聘珍樓本店の場所で経営していた中華料理店を店舗ごと受け継いだんです。
横浜中華街の歴史は試練の歴史だ。日清戦争、関東大震災、日中戦争、太平洋戦争。日中関係だけでなく、辛亥革命・国共内戦など本土の影響も大いにあった。横浜に限った話ではないが、老華僑の方々は、何代にも渡って日本に留まることを選択し、手を取り合ってそれらの試練を乗り越えてきた人たちだ。今また新型コロナという試練に晒されているが、今回もきっと多くの方々が乗り越えられることと、私は確信している。新型コロナが一日も早く終息し、中華街に再び賑わいが戻ることを願ってやまない。
店舗情報 | 住所 : 神奈川県横浜市中区山下町149 営業時間: 平日: 11:30~15:00/17:00~20:30 土・日・祝: 11:00~20:30 定休日: 不定休 → ホームページ |
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主なメニュー | 什錦炒麺(五目焼きそば) 1,950円 牛腩炒麺(牛バラ肉焼きそば) 2,100円 海鮮炒麺(海鮮焼きそば) 2,400円 |
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