【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(2/7)

第一章の続きです。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。


第二章 時系列の検証その1、「皿うどん」が現れるまで

チャンポンはいつから存在したのか?

疑問点を整理するため、基本的な時系列の検証から始めたい。「チャンポン」「皿うどん」に触れている出版物・証言を探し、年代順に考察していこう。

まず、チャンポンはいつから存在したのか? 文献としての「チャンポン」の初出は明治38年12月25日の『東洋日の出新聞』(1905)。四海楼を取り上げた記事だ。「支那饂飩(うどん)」に「ちゃんぽん」のルビが振られていることから、すでに「支那うどん」も「チャンポン」も、ともに呼び名として使われていたことが分かる。

1905_1225_東洋日の出新聞

“四海楼の台湾芸妓
廣馬場の支那料理店四海楼(中略)近来四海楼には見物方々の支那饂飩(チャンポン)客多く繁盛し居れり”

次は明治40年発行の『長崎県紀要』(1907)。「チャンポン」ではなく「チャポン」と表記され、「市内十数個所あり」「支那人の製する饂飩(うどん)」と述べられている。

1907_長崎県紀要

“「チャポン」(書生の好物)
今は支那留学生の各地に入込めるが故珍しきことも有らざるべし。市内十数個所あり。多くは支那人の製する饂飩に牛豚鶏肉葱等を雑ゆ故に甚濃厚に過ぐれば慣れざるものは、厭味を感ずれども。書生は概して之を好めり”

明治42年4月5日の『東洋日の出新聞』(1909)では早くも「長崎の名物名産」として「チャンポン」が語られる。「チャンポン」は先行する研究者が多いので、文献も見つけやすくて楽だ。

1909_0405_東洋日の出新聞

“長崎の名物名産
此他(このほか)支那料理には舌鼓(したつづみ)を鳴らすもの尠(すくな)からず、チャンポンの如きは手軽で廉価で確かに長崎一品なり”

チャンポン発祥の時期の異説としては、昭和13年に発行された『長崎談叢 二十二輯』(1938)がある。ここでは「チャンポンの始まりは明治初年」という説が語られている。ただし明治初年説で確認できたのはこの一文のみ。具体例もない。

1938_長崎談叢_二十二輯

“チャンポンの濫觴は明治の初年我が長崎人本吉某丸山にて支那饂飩をチャンポンと名づけて開業したるものにして終にチャンポンは支那饂飩の固有名詞となり了りぬ。”

「チャンポン」については研究者も多く、検証も念入りにされている。平成6年に発行された『長崎町人誌 第4巻 さまざまのくらし編(食の章2)』(1994)の「チャンポン考」では、「四海楼元祖説にこだわらないとしても」と括弧書きをした上で「早くても明治35~36年」と推定している。

1994_長崎町人誌_第4巻02

“(たとえ、この四海楼元祖説にこだわらないとしても)「チャンポン」が売り出されたのは、大体、明治三十年代の後半、早くても一九〇二~三年(明治三十五~六年)以降あたり”

明治38年の文献初出とも符合するし、私も「チャンポン」の誕生時期はこの「早くても明治35~36年」説で大きなズレはないと思う。

「支那うどん」と呼ばれた時期は?

次に「支那うどん」の用例だ。「皿うどん」という呼び名が「支那うどん」に由来するとしたら、「皿うどん」が生まれたのは「チャンポン」が「支那うどん」と呼ばれていた頃のはず。前節の通り、明治38年には既に「支那うどん」「チャンポン」とも呼び名として使われていた。その後も「支那うどん」の用例は複数見つかる。

明治43年1月1日の『東洋日の出新聞』(1910)には「支那うどん元祖」を謳う全面広告がでかでかと掲載されている。戌年なので犬の絵も添えられているのが愛らしい。

1910_0101_長崎新聞

“支那うどん元祖 長崎市大波止 三角亭
本年を以て四十一歳に相當致候間身祝として一月一日二日三日の三日間御来客様御壹名毎に御酒燗瓶壹本宛進呈可仕候”

そのほんの数日後、明治43年1月5日の『東洋日の出新聞』(1910)にも同店が「支那うどんノ元祖」として広告を出稿している。描かれている人物は弁髪を結っている。翌年に清国で辛亥革命が起こり弁髪が廃止されるが、この時点では実際に弁髪姿の中国人が見られたのだろう。

1910_0105_長崎新聞

“長崎名物最大流行の大一番
長崎第一等、支那うどんノ元祖ハ大波止角、電話八二六番、三角亭ニ限ル、値段ガ安ク味ガ優等、紳士軍人學生最モ人格衛生ヲ重ズル諸士ノ御用達ナリ、御来崎ノ節ハ必ズ御試シヲ乞フ
三角亭 主 敬白”

大正15年(1926年)1月3日の長崎新聞の広告にも「支那うどん」という単語が出てくる。「洋食」「鋤焼(すき焼き)」「壽し(寿司)」と並んで「支那うどん」を提供している。和洋中なんでもありの食堂が、大正末期の長崎にすでに存在していたのだ。

1926_0103_長崎新聞

“開業御披露
一和洋食鋤焼壽し
麵類支那うどん
其他御好みに應じ調理致し升
西濱町電気燗前角 文化食堂”

昭和13年『長崎茶話 第一號』(1938)には、東京・新宿の店が「支那うどん」の広告を出している。屋号は「チャンポン」。戦前は「チャンポン」も「支那うどん」も呼称として同程度に使われていたのだろう。

1938_長崎茶話第一號

“東京を代表する支那料理・支那うどん
チャンポン
新宿にお出の折は是非お立寄り下さい
淀橋區角筈11武蔵野館前入る”

私が調べた限りでは、この昭和13年の広告が「支那うどん」の最後の例だ。戦後に「支那うどん」の呼ぶ例は見つけられなかった。皿うどんが生まれたのは明治に「チャンポン」が登場してから戦前に掛けてのようだ。

「皿うどん」はいつから現れたのか?

それでは本題、「皿うどん」の現れた時期を検証してみよう。

昭和56年3月26日付『朝日新聞』(1981)の「わが家の郷土料理」という読者投稿欄に、「小学校にあがる前まで長崎にいました」という70才の主婦が「中華街」の「忘れられない味」として「皿うどん」のレシピを投稿している。

1981_0326_朝日新聞

“わが家の郷土料理 皿うどん(長崎県)/東村山市・新井三代子(70)・主婦
小学校にあがる前まで長崎にいました。そのころ、兄によく連れていってもらった中華街。その忘れられない味が上京後、長崎風皿うどんに生まれかわって、わが家独特のレパートリーになりました。”

昭和56年(1981)で70才ということは明治44年(1911)生まれ。当時の尋常小学校の入学時の年齢は現在と同じく6才。入学前で5才とすると時代は大正5(1916)年。大正5年の長崎新地中華街に「皿うどん」が存在したことになる。これが私が調べた限りで最も古い皿うどんの証言だ。

続いて昭和51年『味雑事談』(1976, 奈良本辰也)。作家・足立巻一の回想に「小学校2年のときに長崎で皿うどんを食べた」とある。足立巻一は大正3年(1913年)生まれなので、小学2年の頃なら大正9年(1920年)の証言とみなすことができる。

1920_味雑事談

“足立 東京で小学校の一年までおりまして、それからちょっと一年ばかり長崎へ行って、そして神戸です。
(中略)
足立 長崎ではしっぽくとか皿うどん、ああいうものをよく食ったです。
奈良本 あそこは、ちゃんぽんもうまいね。しかも中国人のやっている店のちゃんぽんがうまいです。
足立 つまり昔のシナ町といわれておったところ、その名残の一角が焼け残ってありますが、その辺で食うと、これは格別うまいですな。”

足立巻一は幼い頃、祖父の漢学者・足立敬亭(足立清三)と放浪生活を共にした。その足立敬亭が著したとされる『鎖国時代の長崎』という手稿が長崎県立図書館に保存されている。私が訪問したときは長崎県立歴史文化博物館に移動していて、同博物館でその複製をコピーした。以下は『鎖国時代の長崎 中編』に含まれる「第十二章 支那渡来の学芸」「第九節 料理」の一節だ。

1916_鎖国時代の長崎

“煎包(チャンポン) 玉葱蒲鉾小椎茸皮豚肉豚薄焼卵等を小麦粉の鉢に堆く盛り五目飯散目鮓のごとくにし或いは脂濃き煎汁をかけ麺と同じき椀盛りとす”

出版物ではないので正確な年代特定が難しいが、郷土史家の越中哲也氏は著書『長崎学・続々食の文化史』(2002)の中でこの手稿の由来を検証し、「大正十年以前には書かれていた」と結論している。さらにこの文について次のように述べる。わざわざ”現在の”「皿うどん」と述べているのでパリパリ細麺を想定しているのだろう。(なお同書の『鎖国時代の長崎』引用文で「敬目鮓」とされてる個所は「散目鮓」かも?)

2002_長崎学・続々食の文化史

“この前段の料理は現在の「皿うどん」と称しているもののことを言い、後段は現在各店で売られているチャンポンのことを言っている。”

たしかに「小麦粉の鉢に堆(うずたか)く盛り五目飯散目鮓のごとくにし」と、「脂濃き煎汁をかけ麺と同じき椀盛りとす」が、「或いは」で対になっている。その点を踏まえると、前段が「皿うどん」、後段が「チャンポン」の描写と考えて良さそうだ。ただし「小麦粉の鉢」だけではパリパリ細麺の「炒麺(チャーメン)」か、それとも太麺の「皿うどん」かまでは特定しづらい。

「煎包(チャンポン) 」という項目名については、子母沢寛『味覚道楽』(1957)の「長崎のしっぽく ‐ 南蛮趣味研究家 永見徳太郎氏の話」に興味深い記述がある。永見氏は長崎で明治23年に生まれた人物で、昭和2年に長崎の食に関するインタビューを受け、「チャンポン」についてこう話している。

1927_味覚道楽

“チャンポンというのがある。えび、しいたけ、豚、なまこ、鶏の臓物、骨などを大きな鍋で、うすい塩味で、煮合わせて、それへ「うどん」を入れてまた煮る。つゆを多くしたのと少し焼きつける位にしたのとあるが、これを山のように盛って出す。書生料理でもあり、またうまくもある。”

チャンポンには「つゆを多くしたの」と「少し焼きつける位にしたの」の二種類があると語っている。後者は明らかに太麺の「皿うどん」のことだ。

足立敬亭の『鎖国時代の長崎』でも「チャンポン」と「皿うどん」は「煎包(チャンポン) 」という項目名で括られていた。2つの資料を併せて考えると、当時は太麺の「皿うどん」が一部で「チャンポン」と呼ばれていた、あるいはチャンポンの亜種と見做されていたのかも知れない。そうなると資料の読み方も変わってくる。

以上を鑑みて、足立清三(敬亭)『鎖国時代の長崎』の「皿うどん」も、その孫の足立巻一が大正9年に食べた「皿うどん」も、チャンポンと同じ太麺を使っていた可能性が高いと私は思う。

もう一つ、大正期の皿うどん証言。昭和40年『あまカラ(171)』(1965)の青地晨「ムツゴロとチャンポンの味」。青地晨は明治42年(1909年)、富山県生まれ、佐賀県育ちの評論家だ。彼は「高校、中学時代の一番の御馳走は長崎チャンポンと皿うどんだった」と呼べている。

1965_あまカラ (171)

“高校、中学時代の一番の御馳走は長崎チャンポンと皿うどんだった。チャンポンは一皿二十銭、皿うどんは五十銭だったと思うが、皿うどんは二人か三人かでたべないと、たべきれぬほどの分量だった。”

明治40年生まれだと中学入学が大正11年(1922年)、高校卒業が昭和2年(1927年)。大正末期の佐賀に皿うどんがあったようだ。ただ皿うどん五十銭はともかく、チャンポン一杯二十銭という価格は時代的にずいぶん高く感じる。長崎を離れた土地で「一番の御馳走」という表現から、それなりに高級な中華料理店だったのかも知れない。

昭和初期の皿うどん証言

さらに昭和に入ってからの皿うどんの証言を追ってみよう。『長崎弁で綴る絵のない漫画』(1998)に、昭和8年(1933年)の思い出として「チャンポンを五銭で食べた話」が紹介され、その中に皿うどんが出てくる。「私が商業学校五年のとき」と具体的に年代に触れているので、時期的な確度は高い。十銭均一の「テンセン(十銭)ストア」が大流行した頃なので、その流行に乗って「十銭(テンセン)チャンポン」が売られていたのかも知れない。

1933_長崎弁で綴る絵のない漫画

“まず、電話で十銭チャンポンを五杯注文する。「稲田町の◯◯番◯◯へ配達して下さい」間もなくチャンポン屋が出前を重そうに両手を下げて上がってゆく。
(中略、でたらめの住所で届けられなかった店員に対し)
「半額でよかったら置いてゆかんね。食べてやるケン」
「ヨカアルカ。タスカルアルネ、アリガト」
結局、二十五銭で五人が腹いっぱい。
それからひと月ほどして、また、そろそろやろうかと思っていたら、夕方、向こうから皿うどんを一皿持ってきた。
「配達ワカランアル、イクラデモヨカ、買ウアルカ」
「ヨカヨカ。置きなさい買うケン」
その後、気の毒でダマせなかった。”

また、昭和33年に出版された『長崎料理史』(1958)では、「チャンポンが十銭の時代に皿うどんは(量が五人前くらいあるので)五十銭だった」という話が出てくる。「アチャさん」は当時の長崎で中国人全般を指す愛称。麺料理はもちろん「チャンポン」のことだ。

1958_長崎料理史1

“日本人の店で「かけ」や「もり」が十銭であるのに比べて、アチャさんの麺料理は魚の身やえびや椎茸やその他海山のものを盛込んで十銭くらいでしたのでこれはもっとも人気を呼んだものでした。(中略)とにかく「ちゃんぽん」はこの街の各種の特徴をとりいれて成長した長崎料理の一つといえましょう。”

そう語った後に「皿うどん」の紹介が始まる。

“「ちゃんぽん」といつも併称されるのが「皿うどん」です。これは「ちゃんぽん」に比べて少し値段も張り、それだけにやや高級とされていました。(中略)履物をぬいで座についた客は一卓を四五人で陣取り、一皿五十銭の皿うどんを注文します。これは三十銭くらいのものもありましたが、たいてい五十銭から七十銭くらいまでで、高価な方には前に述べた「えびがねもち」のような揚団子が五つか六つ、人数分だけ具の上に乗せてありました。(中略)一皿を五六人で食べるものですから、一杯十銭のちゃんぽんを食べるのと経済的な負担はおなじわけです。そしてそれは「ちゃんぽん」よりも脂肪が多いので腹持もよく、うどん、そばよりも若人によろこばれたのは当然でしょう。”

「チャンポン十銭」は前掲エピソードと同価格なので、時代も同じ昭和8年前後の話と考えて良いだろう。どちらの書籍でもごく日常的な存在として「皿うどん」が語られていることから、当時すでに長崎で普及していたと考えて良さそうだ。

時代が下って昭和14年になると東京にも「皿うどん」を出す店が現れた。昭和14年『長崎茶話 第三號』(1939)の「ちゃんぽん」という随筆にこうある。

1939_長崎茶話大三號

“ちゃんぽん屋が、近頃、東京にも二三軒出來たらしい。茅場町のは止めたらしいが、新宿のは随分繁昌してゐる。
皿うどんとちゃんぽん、目黒のが一番古いと思ふが、今もやつてゐるかどうか、新宿のだけは一度食べてみた。味のつけ加減がくどすぎて、脂つぽいやうだつた。気のせいだか知らない。
味のつけ方といへば、近頃長崎のだつて、食べるたびに悪くなつてゆくやうだ。うどん其ものが既にわるくなつてゐる。”

同誌の次の号『長崎茶話 第四號』(1939)には五反田のチャンポン屋の広告が掲載され、そこにも「皿うどん」の単語が見える。

1939_長崎茶話第四號

“夕べの御散策には是非! 味と量と値に帝都一!
純長崎式チャンポン・皿うどん 紅華
山手線五反田驛三分(目蒲バス松泉閣前)”

東京での皿うどんについては、サトウハチローも新宿で皿うどんを食べた話を残している。昭和11年(1936年)に朝日新聞で連載していた『僕の東京地図』の「三越の裏」という回。内容や当時の地図・住所と引き合わせ、前掲した広告の新宿「チャンポン」がこの店だと特定できた。昭和11年には新宿で皿うどんが食べられたのだ。

1936_僕の東京地図

“チャンポンと言い皿うどんと言えば〽アチャさんピイ太鼓持ってドン――なるはやし文句と共に有名なる長崎料理だ。こいつが、べらぼうにうまい。皿うどんなるものはヤキソバの兄貴だと思えば間違いはない。三十銭のを一つあつらえると、二人で結構腹がふくれる。チャンポンの方は丼に入っておつゆがある。”

ちなみに昭和34年『東京味どころ〈続〉』(1959)の「チャンポン・長崎の味」によれば、この新宿「チャンポン」は戦後に銀座六丁目へ移転して「新々飯店」と名乗ったようだ。

1959_東京味どころ続

“銀座六丁目、小松ストア裏の「新々飯店」には(略)”
“新々飯店は、これらの”東京元祖”をうたっている。戦前、新宿の昭和館という映画館の近くに「チャンポン」という名で開業、東京人にこの長崎名物を普及した。”

「皿うどん」は遅くとも大正5年の長崎新地中華街に存在し、昭和8年ごろには長崎で普及。昭和11年には東京にまで進出していたことになる。さらに古い例がそのうち見つかるかも知れないが、現段階で遡れるのはそこまでだ。

チャンポン年表「大正初年頃」「皿うどん50銭」は?

ところで「皿うどんの存在が大正5年までしか遡れない」と聞いて、「おや?」と思う方もいるだろう。第一章で述べた通り、「ちゃんぽんミュージアム」の「四海楼チャンポン年表」では、「大正初年頃」に皿うどんがあったように書かれていた。あの記述はどうなんだ、と。

四海楼 チャンポン年表

“1915年(大正4年) 大正初年頃、ちゃんぽん一杯10銭(皿うどん50銭)”

この「皿うどん50銭」は、前述した『長崎料理史』の「一杯十銭のちゃんぽん」「一皿五十銭の皿うどん」という証言を根拠にしたものだと思われる。これが大正初年頃の話なのかを検証しよう。

この年表のチャンポンの価格推移は、基本的に昭和22年9月28日の『長崎日日新聞』に掲載された「チャンポンの歴史」というコラムに基づいたものだ。

1947_0928_長崎日日新聞

そのコラムでは「チャンポン」の価格推移を次のように記載している。各時代の貨幣価値からすると、このコラムの筆者は随分高価な「チャンポン」を食べていたようだ。ただ彼の生活圏では実際にこういう価格推移だったとしておこう。

1947_0928_長崎日日新聞_拡大

“明治三十年ごろ(中略)大丼一杯五銭也で賣出した。(中略)
大正初年ごろから十銭に引き上げられ、(中略)
昭和に入ると共に又十五銭から廿五銭までに値上がりした。(中略)
(日華事変から太平洋戦争に掛けて)値段も一躍五十銭に引き上げられ、八十銭から一円になり、(中略)
昭和十六年ごろには三円という、當時としては法外な値段をつけられた”

年表の製作者は、このコラムに書かれた「大正初年ごろから十銭」というチャンポンの価格と、『長崎料理史』の「一杯十銭のちゃんぽん」の記述を照らし合わせ、「皿うどん五十銭」も「大正初年ごろ」と結論づけたのだと思われる。

しかし仮にこのチャンポンの価格推移が正しかったとしても、『長崎料理史』のエピソードが大正初年というのはありえない。理由は単純、『長崎料理史』著者の和田常子は「大正6年生まれ」だからだ。コトバンクによれば「大正6年1月29日生まれ」の「長崎県出身」。自分の体験として語られているのは文脈から明らかなので、「皿うどん五十銭」は物心のついた後、早くても大正後期以降の話だ。そもそも大正初年には生まれてすらいない。

“和田常子
1917- 昭和-平成時代の栄養学者,料理研究家。
大正6年1月29日生まれ。(中略)長崎県出身。長崎女子専門学校卒。”

「大正初年頃」が疑わしい根拠はもう一つある。著者・和田常子は同じエピソードで『「かけ」や「もり」が十銭』のころとも語っている。

1958_長崎料理史1_拡大

週刊朝日『値段史年表 明治・大正・昭和』によると、大正初年ごろの「かけ」「もり」の相場は三銭から四銭くらい。大正九年に「八〜十銭」、昭和十年が「十銭~十三銭」となっているので、「大正初年」ではなく、大正九年から昭和十年に掛けての時期と考えるべきだ。『長崎弁で綴る絵のない漫画』の「昭和8年」「十銭チャンポン」とも符合する。

週刊朝日_値段史年表_そば

以上の理由から「四海楼チャンポン年表」の「大正初年頃」「皿うどん50銭」という記述については、その根拠が明白にならない限り、私は採用を控えておきたい。

(「第三章 時系列の検証その2、長崎皿うどんがパリパリ細麺になるまで」に続く)

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