【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(6/7)

第五章の続きです。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。


第六章 「炒麺(チャーメン)」はどこから来たのか

カタ焼きそばアメリカ発祥説

麺を揚げた「炒麺(チャーメン)」、いわゆる「カタ焼きそば」はアメリカで生まれた。あまりに飛躍しすぎて、眉唾ものの俗説に感じるだろう。しかし、それが私の持論だ。

私がその突拍子もない説を出版物で初めて目にしたのは、台湾で購入した『麵王』(2011, 康鑑文化)という麺料理のレシピ本だ。台湾では「カタ焼きそば」を「広東炒麺(廣東炒麵)」や「広州炒麺(廣州炒麵)」と呼んでいる。そのページにコラムがあった。

麵王

コラムのタイトルは「広州炒麺の発祥は広州なの?(廣州炒麵發源地是在廣州嗎?)」。「19世紀、ゴールドラッシュの時代にサンフランシスコの中華料理店で、客の求めに応じ麺に「Chop Suey」(チャプスイ)を掛けて提供したのが広州炒麺(カタ焼きそば)の始まり」という内容だ。

麵王2

”廣州炒麵發源地是在廣州嗎?
廣州炒麵發源地原來不在廣州、而在海外。相傳十九世紀有許多中國人至舊金山打工、某天晩上中國餐館快打烊時、來了一批華工要求點餐、廚師只好把當天剩菜雜碎(chop suey)和飯麵炒在一起、意外贏得好評、從此遠近馳名、因當年華僑以廣東人居多、這道炒雜碎就被稱為廣州炒麵或炒麵了。“

これまでに述べたように麺を揚げた「炒麺」は中国に無い。そして中国(台湾)の料理研究家が「アメリカで生まれた」と言っている。調べてみる価値はあるだろう。この章ではその「カタ焼きそばアメリカ発祥説」について検証しよう。

はじめに「Chop Suey」(チャプスイ)ありき

前述のコラムにも登場する「Chop Suey」(チャプスイ)は、19世紀のアメリカで誕生したアメリカ式中華料理だ。漢字表記だと「雜碎」または「杂碎」で、広東料理がルーツとされる。いろんな文献を当たって経緯を調べてみた。以下はそのまとめだ。

1842年、阿片戦争に敗北した清国は南京条約で香港島をイギリスに割譲し、さらに広州・福州・廈門・寧波・上海の5港が開港を迫られた。疲弊した清国と混乱する故郷を目の当たりにした中国人は、1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュに活路を求め、大挙して新天地アメリカへと旅立つ。日本は江戸時代、嘉永元年。嘉永6年(1853年)に黒船が来航する数年前の話だ。

サンフランシスコの中華街

移民船が寄港するサンフランシスコには広東出身者を中心にして中国人が多く住みついた。1852年には中国移民が2万人に達し、さらに1863年のリンカーンによる奴隷解放宣言が苦力(クーリー)としての労働力需要を押し上げ、1869年(明治元年)には6万人を超えたという。サンフランシスコのチャイナタウンは、19世紀後半にこうして形作られていった。

とある店のチャプスイメニュー

その広東人を中心にした中国移民たちの間で誕生し、大流行したアメリカ式中華料理が「Chop Suey」(チャプスイ)だ。「Chop Suey」はいろんな野菜や肉を炒め煮し、コーンスターチなどでとろみをつけた料理だ。日本で言う八宝菜に近く、ご飯に掛けて中華丼のような形で提供されることが多かった。四海楼のメニューでも中華丼が英語で「Chopsuey Rice」と訳されている。訪れる際はチェックしてみて欲しい。

四海楼のChopsuey Rice

アメリカで「Chop Suey」大流行

「Chop Suey」の流行はアメリカ各地のチャイナタウンに伝播し、サンフランシスコの西海岸だけでなく東海岸のニューヨークでも提供されるようになった。アメリカの中華料理の歴史をまとめた本、『Chop Suey: A Cultural History of Chinese Food in the United States』(2009, 以下『Chop Suey』)を参考に、軽く「Chop Suey」の歴史をたどってみよう。

同書では最初期の文献として、『Chinese Cooking』(1884)を挙げている。『Chinese Cooking』には、ニューヨークの”Ichthyophagus Club”で提供された料理が紹介され、その中に「Chop soly」が含まれている。『Chop Suey』の著者・Andrew Coe氏はその点に触れ、「Chop Suey」(炒杂碎/chow-chop-sui)が当時(1884年)すでに普及していたのだろうと述べている。

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“Perhaps he included it because “Chop soly” was already becoming popular with Western diners, who knew the dish also as “chow-chop-sui” and later “chop suey”.”

これも『Chop Suey』からの孫引きになる。1896年、『New York Journal』の日曜版に「Queer Dishes Served at the Waldorf by Li Hung Chang’s Chicken Cook」と題した中華料理のレシピが掲載された。その中に「Chop Suey」のレシピもある。同年に訪米した清国の宰相・李鴻章(Li Hung Chang)に供された料理という体だが、実際に李鴻章に出された料理は違うそうだ。「Chop Suey」と李鴻章を絡めた俗説はこれが起源らしい。

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“Cut up equal amounts of celery, and wash and soak some dried mushrooms and bits of raw ginger. Fry the chicken giblets in peanut oil until they are nearly done, then add the other ingredients and a very small quantity of water. A favorite addition to this dish is scraps of pork and slices of dried cuttlefish, also rice which has been left on a damp floor until it has sprouted. These sprouts, about two inches in length, are remarkably tender and palatable. A little soy should be put into the chop sui while cooking and peanut oil to furnish the grease. Eat freely of it. If you can digest it you will live to be as old as Li Hung Chang.”

Chinese-Japanese Cook Book』(1914)にも複数の「Chop Suey」のレシピが載っている。以下は「EXTRA WHITE CHOP SUEY」。「Chop Suey」を御飯と共に供するよう書いてある。

1914_Chinese-JapaneseCookBook_chopsuey

“Cut in small pieces the breast of a young chicken of about one and one half pounds. Put a tablespoonful of chicken fat in a deep frying pan, and heat very hot, then put in the chicken and fry brown, stirring to keep from burning. Have ready the following ingredients: One pound of fresh white mushrooms, cut small; half a bunch of celery, chopped; a dozen water chestnuts, peeled and cut in slices; two white onions, and half a can of bamboo shoots, all sliced. Add all these to the chicken, and cook for ten minutes. Now add two pounds of bean sprouts, and cook for another five minutes with two tablespoonfuls of syou and a dash of cayenne pepper. Simmer for five minutes longer, and serve with rice.”

アメリカ生まれの中華料理「Chop Suey」は、こうして19世紀末のアメリカに普及した。そして、いつどこでかは明確ではないが、「Chop Suey」はご飯だけでなくパリパリの揚げ麺に掛けて食べられるようにもなった。

揚げ麺の「Chow Mein」誕生

揚げ麺にチャプスイを掛ける食べ方のルーツは、広東料理の「炒麺」とされる。日本の広東料理店であんかけ焼きそばを注文する際、「硬い」「柔かい」を選択できる店が多い。その後者の柔らかい麺が広東スタイルの「炒麺」だ。麺の両側を固く焼いて餡を掛けた料理で、麺の中心部は柔らかいままにする。

しかしアメリカには、パリッとしたクリスピーな食感を好む人が多いらしい。メキシコ料理のタコスは、アメリカではトルティーヤを揚げたハードタコス(ハードシェル)が主流。「もっとポテトフライを薄くしろ」という客の要望に応じて、現界まで薄くスライスして揚げたのがポテトチップスの始まりというのもよく知られた話だ。それらと同様に、客のリクエストに応じて広東式の「炒麺」が揚げ麺の「Chow Mein」になったのではと思われる。

そのルーツの「炒麺」にちなんで、英語では「Chow Mein」と呼ぶのが一般的だ。ただし、中にはご飯も麺も区別なく「Chop Suey」と呼んだり、「Chop Suey Noodles」と呼ぶこともあった。サンフランシスコの中華街で1938年に創業した「New Woey Loy Goey Restaurant(同楽飯店)」の古い看板にも、「CHOP-SUEY-NOODLES」の文字が掲げられている。2017年6月に同店を訪れて「Chow Mein」を食べてみた。

1934_NewWoeyLoyGoeyRestaurant

日本式中華の状況と似ているが、アメリカでもアメリカ式中華が本場の味ではないとすでに認識されている。そのせいか現在の西海岸の「Chow Mein」は混ぜ炒めたタイプが主流で、揚げ麺は「香港スタイル(Hong Kong Style Cryspy Noodle / 港式煎麵)」とオーダーせねばならない。それでも往年の「Chop Suey Noodles」の雰囲気は感じ取れる。

Hong Kong Style Cryspy Noodle

揚げ麺に「Chop Suey」を掛けたこの「Chow Mein」は、いつごろから存在するのだろう? 資料は限られているができる限り遡ってみることにする。

まず前掲の『Chinese-Japanese Cook Book』(1914)。この本には「Chop Suey」だけでなく、「Meat Chow Main」「Chicken Chow Main」「Lobster Chow Main」という三種の「Chow Main」レシピが載っている。全て麺を揚げた「カタ焼きそば」だ。例えば「Meat Chow Main」。度量衡を現代日本風に換算して意訳すると、「1リットルの油を熱し、麺100gを入れカリッとするまで揚げる」よう書いてある。

1914_Chinese-JapaneseCookBook_chowmein

“Into a quart of peanut oil put a quarter of a pound of noodles, and cook until crisp; then remove and drain. Meanwhile take one pound of pork, cut it in small pieces, and fry a golden brown. Cut up half a pound of veal, and fry with the pork for five minutes. Add two tablespoonfuls of syou and half a tablespoonful of salt to this, and let it simmer slowly, while preparing the following: Wash, and soak for ten minutes, half a pound of Chinese dried mushrooms, pulling off the stalks; half a bunch of celery, cut small; also one onion, chopped fine, and half a dozen water chestnuts, sliced fine. Turn these in with the meat and cook all together for five minutes. Place the noodles on a hot platter as a bottom layer, then the meat and vegetables. Garnish the top with threaded ham and the crumbled yolks of two hard-boiled eggs.”

節の冒頭で薄切りポテトチップスの発祥について触れたが、その起源は1853年とされている。当初は発祥の地名に因んでサラトガ・チップス(Saratoga Chips)と呼ばれた。「Chow Mein」の食感を、そのパリパリのサラトガ・チップス(Saratoga Chips)に例えた記述が残っている。

Original-med-hires

1902年6月2日の『ワシントン・ポスト』紙のコラム「Conversations with a Chorus Girl」。これも『Chop Suey』からの引用だが、「Chow Mein」の感想として「この細麺はサラトガ・チップスを糸みたいに切ったんだって、そう思うよね?」というセリフが書かれている。1902年(明治35年)の時点で「Chow Mein」は揚げ麺だったことが、文脈から読み取れる。

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“Gee! I like it. You’d think the vermicelli was Saratoga chips [i.e. potato chips] cut into strings.”

そのコラムの2年前、1900年。ギリギリ19世紀。ニューヨーク中華街のMott Street 16番地に「King Hong Lau」という中華料理店があった。Andrew Coe氏の『Chop Suey』には当時のメニューが掲載されている。

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それを見ると「賣炒(Fried)」の筆頭に「什碎(Chop Sooy)」があり、その下に「肉絲麺(Main, with meat)」「鶏絲麺(Main, with boneless chicken)」が載っている。

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「賣炒(Fried)」の「肉絲麺」「鶏絲麺」。つまり、どちらも「炒麺」のことだ。1900年、19世紀末のニューヨーク中華街で「炒麺」が提供されていたのだ。

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その「King Hong Lau」の通りを挟んだ向かい側、Mott Street 17番地には1938年創業の「Wo Hop」という中華料理店が現存している。2店の創業年からすると、もしかしたら向かい合って営業していた時代もあるかも知れない。

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2018年4月。その「Wo Hop」で「Roast Pork Chow Mein」を実際に食べてみた。「Cantonese Style」か「Old Style」かと訊かれ、後者を注文して出てきた品は、一風変わったカタ焼きそばだった。5〜6cmの短くて細い揚げ麺(面干/Mein gon)に、セロリなどの野菜とチャーシューを炒めた餡が掛かっている。

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料理と一緒に渡されたのは箸でもフォークでもなく、スプーンだ。なるほど、揚げた麺ならスプーンでも食べやすい。これもアメリカで揚げ麺の「Chow Mein」が人気を得た理由かも知れない。「Old Style」はこんなんだが「Cantonese Style」の方も揚げ麺で、そちらは一般的なカタ焼きそばだ。

別の日に近隣の店『Delight 28 Restaurant』で食べた「Lobster with Crispy Noodles」も、ロブスターはともかく、麺は日本で出されてもおかしくない揚げ麺だった。Wo Hopの「Cantonese Style」はこんな感じの麺だ。

Lobster with Crispy Noodles

1902年のコラムや1938年に創業した「Wo Hop」の「Chow Mein」を併せて考えると、1900年「King Hong Lau」の「炒麺」も揚げ麺だった可能性が高い。私が遡れたのは今のところ、ここまでだ。しかし中国にない料理が19世紀末のニューヨークでこの状況。揚げ麺の「炒麺(Chow Mein)」イコール「カタ焼きそば」は、アメリカで生まれたと考えて間違いないだろう。

カタ焼きそばの呼び名

蛇足かも知れないが「カタ焼きそばアメリカ発祥説」を私が支持するに至った理由が他にもある。それはカタ焼きそばの呼び名だ。

まず漢字表記。日本ではカタ焼きそばを「炸麺」と書く場合が多い。写真は名古屋の「百老亭 今池店」のメニューだ。しかし現代の中国語では、「炸麺(炸面)」は揚げパンやドーナツを指す単語で、「カタ焼きそば」に使うことはほぼない。

百老亭 今池店 メニュー

またこの章の冒頭で触れたが、台湾では「カタ焼きそば」を「広東炒麺(廣東炒麵)」あるいは「広州炒麺(廣州炒麵)」と呼んでいる。一方、当の広東や香港ではカタ焼きそばを「煎麺(煎麵)」と表記する。日本の広東料理店ではまず目にしない書き方だ。さらに上海では(内部が柔らかいケースも多いが)「両面黄(兩面黃)」と呼ぶ。「脆麺(脆面)」「脆炒麺(脆炒面)」と呼ぶ地域もある。

もしカタ焼きそばが中国に元々存在する料理なら、料理名、特に漢字表記はある程度一律でないとおかしい。それがここまでバラバラなのは、中国本土には無かった証左だ。

それともう一点。カタ焼きそばのルーツが広東の焼きそばのため、台湾の「廣東炒麵」以外にも「広東風の」と呼ぶ国は多い。アメリカは「Cantonese Chow Mein」、フィリピンでは「Pancit Canton」、マレーシアでは「Mie goreng kanton」。

アメリカン・チャプスイ

しかしインドは違う。インドではなんと「アメリカン・チョップシ(American Chop Suey)」と呼んでいるのだ。そのものズバリ、国名まで入っている。これもきっとカタ焼きそばがアメリカで生まれた名残だろう。

アメリカ式中華料理は、いつ日本へ伝来したのか?

19世紀末のアメリカでカタ焼きそばが生まれたとして、それが明治36年(1903年)の日本に伝わる可能性はあるだろうか?

アメリカ式の中華料理を日本で初めて紹介したのは、一般的には昭和元年(1926年)創業の「銀座アスター」とされる。創業75周年を記念して出版された『銀座アスター物語』(2002)には、開業当時のチラシが口絵で紹介されている。「米國其侭(そのまま)を日本で」「初めての試み」「米國式中華料理」などの煽り文句とともに、「チャップスイー」「ヌードルズ」そして「チャウメン」の料理名が載っている。

1926_銀座アスター

このチラシの通りだとすると、アメリカ式の中華料理が日本に来たのは昭和に入ってから。明治時代に上陸していたことはありえないことになる。しかし、文献を調べるとそうとは限らないようだ。

明治30年に出版された『社会百方面』(1897)に「居留地風俗記(二十七年初夏)」という章がある。明治27年の初夏に横浜の外国人居留地=南京町を訪れたルポタージュだ。まだまだ外国人に馴染みがない頃のため、内容は中国人への偏見に満ちているが資料として貴重だ。「飲食店」という節でも中華料理をゲテモノのように描写しているのだが、その料理の一つ「ちやぶちい」は恐らく「Chop Suey」(チャプスイ)のことだ。この品揃えで他に思い当たる料理はない。さらに続く文には「炒粉銀麺」という紅紙を見たとも書いてある。これが「炒麺」を指すかは不明だが、可能性としてはありうる。

1894_社会百方面

“居留地風俗記(二十七年初夏) / 飲食店
五味八珍悉く豚のあぶらを加へざれば以て滋味となすに足らざる彼らの御料理は。油團(ゆだん)といひ、飽餅(はうべい)といひ、わんだんといひ、ちやぶちいと言ひ、豚蕎麥(ぶたそば)、豚饅頭(ぶたまんぢう)、一つとして豚の脂肪(あぶら)を以て造り、豚の肉を混じて製せざるはなし、(中略)「山海珍味」「炒粉銀麵」などヽ麗々しく紅紙に記したる處をみれば、(後略)”

この「ちやぶちい」が「Chop Suey」だとすると明治27年(1894年)の横浜には、すでにアメリカ式の中華料理が存在していたことになる。明治27年の初夏というと、7月に日清戦争が始まるころ、銀座アスターに先立つこと30年以上前の話だ。

当時の横浜はどのような町だったか。『横浜における外国人居留地および中華街の変容』という論文によると、当初の横浜外国人居留区は欧米各国の商人たちのために作られ、中国人はそれら商人たちの通訳や使用人、コックとして連れてこられた。後に欧米人は山手へ、中国人は低地へと住み別れ、横浜中華街・南京町が形成された。本国から直接来た中国人だけではなく、中にはアメリカから来た中国人コックもいたことだろう。

横浜における外国人居留地および中華街の変容

“横浜に進出して来た欧米の商人は、対中国貿易の豊富な経験から。中国人を「買弁(ばいべん)」として随伴してきた。買弁とは、中国において取引を有利に運ぶためにイギリス貿易商が始めたもので、中国の商人を商社の専属とし、彼らに中国市場における輸出商品の買い付けを委託した。これら買弁のほかに、欧米人家庭のコックや使用人などとして、あるいは大工、船舶の荷役労働者などとして、欧米人は多数の中国人を随伴して横浜に来港した。”

アメリカへ苦労して渡航した中国移民が、わざわざ本国に近い東アジアの日本に舞い戻る。なさそうな話に思えるが、当時のアメリカの移民政策を考慮すれば話は別だ。

中国人排斥法当時の戯画

19世紀後半、欧米では黄色人種を差別する「黄禍論」が巻き起こった。アメリカ政府も中国からの移民が増え続けることに危惧を覚え、1882年(明治15年)に中国人排斥法を発令した。この法律で多くの中国移民はアメリカを離れる選択を余儀なくされる。その渡航先の一つが開国してまだ日が浅い日本だったとしても不思議ではない。

前述の通り『Chinese Cooking』が出版された1884年には、すでにアメリカで「Chop Suey」が普及していた。10年後の明治27年(1894年)にアメリカ式中華料理「Chop Suey」が日本に持ち込まれて「ちやぶちい」と呼ばれ、「Chow Mein」も「炒粉銀麺」として上陸した可能性は十分ある。ましてや明治36年なら、その可能性は一層高まる。

以上の推論から、明治36年の横浜にあった「炒麺」「カタ焼きそば」は、アメリカ生まれの料理「Chow Mein」が流入したものだと私は考えている。

長崎・四海楼とアメリカ

横浜の「炒麺」「カタ焼きそば」のルーツがアメリカの「Chow Mein」だったとしよう。では長崎の「炒麺」「細麺皿うどん」もアメリカ由来なのだろうか? 明治32年に四海楼を創業した陳平順氏は福建出身で広東ではない。その彼が広東をルーツするアメリカ式の中華料理と出会ったなんて、ありうるのだろうか?

実はそれが私の積年の疑問だった。日本全国はおろか、アメリカまで行って焼きそばを食べ歩いた結果、カタ焼きそばのルーツがアメリカなのはだいぶ前に確信していた。今年に入って近代食文化研究会さんの資料のおかげで、戦前はカタ焼きそばが主流なことを知り、その他の文献と照らし合わせて、それが明治時代の横浜へ伝えられたであろうこともわかった。ただ長崎の「細麺皿うどん」がわからない。年代からして横浜から「カタ焼きそば」が伝わった可能性は考えにくい。

明治時代の長崎、あるいは四海楼とアメリカの中華料理を結びつけるなにか。ジグソーパズルの最後のピース。それを求めて先月の長崎滞在を計画した。当時の長崎とアメリカの貿易はどうだったのか。当時の長崎の移民はどういう割合だったのか。グラバー邸などの資料になにか残されていないか。現地の図書館を中心にじっくり資料を調べるつもりだった。

しかし、その苦労はせずにすんだ。初日に四海楼を訪れたら、いともあっさりその解答が見つかってしまった。実にあっけなく。

四海楼 創業当時の写真

第一章の冒頭で述べたとおり、四海楼『ちゃんぽんミュージアム』の入り口には、創業した明治32年当時の外観写真が飾られている。出版物などでは分かりにくいが、現地で近づいてよく見ると英語の看板も掲げられているのがわかる。そこには「SHIKAI-RO」「AMERICAN RESTAURANT」と書かれていた。

SHIKAI-RO AMERICAN RESTAURANT

“SHIKAI-RO
AMERICAN RESTAURANT
MEALS AT ALL HOURS
UP STAIRS
NO.13, HIROBABA-MACHI”

これを見て私は思わず「あった……」と声に出してしまった。丁寧にも星条旗まで描かれているではないか。

そう。四海楼は明治32年の創業当初、アメリカ式の料理も提供していた。可能性どころの話ではない。間違いなく渡米経験のある料理人が創業時にいて、アメリカで大人気の「Chop Suey」や「Chow Mein」を作っていたに違いない。最後のピースはすぐ眼の前にあったのだ。

横浜の「カタ焼きそば」と長崎の「細麺皿うどん」は、名前も調理法も全く同じ「炒麺(チャーメン)」という料理だった。そしてその「炒麺(チャーメン)」とは、アメリカ生まれの揚げ麺料理「Chow Mein」が伝わったものだった。これでようやく「長崎皿うどん」の歴史の全貌が明らかになった。

(「第七章 「長崎皿うどん」のいま、そしてこれから」に続く)

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