【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(1/7)

突然ですが、コラム『長崎皿うどんについての歴史的考察』を集中掲載します。先日、長崎に遠征して食べ歩いた皿うどんをご紹介する上で、先にこの考察を知っておいていただく方が良いと考えました。

文章量がかなり多いので1日1章、合計7回に分けて連載します。次回は明朝12/3の8時に公開し、以降毎朝8時に1章ずつ続け、12/8(土)の第七章で終了です。目次として、タグ「長崎皿うどんの歴史的考察」をご利用ください。

来週月曜から通常の焼きそばレポートに戻す予定ですので、そちらを楽しみにされている方はもうしばらくお待ち下さい。ではどうぞ。


第一章 皿うどん起源神話に物申す

「長崎皿うどん」と元祖「皿うどん」は全く別の麺料理

「チャンポン」と並び称される長崎の名物「皿うどん」。パリパリに揚げた細麺に熱々で具沢山のたっぷりあんかけ。トロミのついた餡はほんのり甘く、鶏ガラと豚骨、魚介の旨味に溢れている。これが一般的な長崎皿うどんのイメージだ。

銀座吉宗の皿うどん

しかし食べたことがある人なら、誰もが疑問に思うはず。なぜ、これが「うどん」なのか? その素朴な疑問の答えは、長崎を代表する老舗中華料理店、四海楼にある。

長崎市 四海楼 外観

四海楼の創業は明治32年(1899年)。創業者は福建省出身の陳平順氏。「チャンポン」「皿うどん」の元祖として知られる有名店だ。

四海楼 明治32年(1899年)創業当時の外観

四海楼には「チャンポン」の歴史をまとめたちゃんぽん歴史資料館『ちゃんぽんミュージアム』が併設されていて、その入口には創業時の写真も飾られている。

四海楼の皿うどん

四海楼で試しに「皿うどん」を注文してみよう。「チャンポン」と同じ柔らかい太麺を使った料理がでてくるはずだ。

四海楼の皿うどんメニュー

一方、四海楼にはパリパリ細麺もある。こちらは「炒麺(チャーメン)」という料理名。一般的な長崎皿うどんを四海楼で食べたいのなら、「炒麺(チャーメン)」を注文すればよい。

四海楼の炒麺

しかしどういうことだろう? 「皿うどん」とはパリパリ細麺の方ではなかったのか?

定説とされる「皿うどん」の起源

本来の「皿うどん」はちゃんぽんのバリエーションで、うどん状の太麺だった。四海楼はメニューにそんな説明を載せている。

四海楼 皿うどんの由来

“「皿うどん」は、四海楼初代、陳平順がちゃんぽんのバリエーションとして創ったもので、ちゃんぽん麺を強火で焼き、少なめのスープを加え残らず麺にしみ込ませた料理です。うどん状のものを皿にのせて出したことから皿うどんと名付けられました。”

それに続いてパリパリ細麺の「炒麺(チャーメン)」の説明もある。

“一方「炒麺」は、皿うどんを簡便に作れるようにと極細の揚げ麺にあんかけをしたものなので、皿うどんから派生した麺料理です。いつの間にかこの炒麺も皿うどんと呼ばれるようになり、今日に至っています。”

同じ内容を四海楼四代目の陳優継氏は著書『ちゃんぽんと長崎華僑』(2009)で次のように記している。

『ちゃんぽんと長崎華僑』(2009)

“つまり、ちゃんぽんから汁のない”太麺の皿うどん”が生まれ、さらに簡便化されて餡かけタイプの”細麺の皿うどん”が考案されたというわけだ。いかにも中国料理のようだが、この揚げ麺は中国にはない長崎のオリジナルな麺である。これもちゃんぽん同様、平順考案の麺料理なのである。”

四海楼の『ちゃんぽんミュージアム』では同様の由来とともに、次のような説も紹介されている。

四海楼 『皿うどん』のルーツ

“一説には当時、外国からソースの輸入が盛んになるとともに国内でも盛んに生産されるようになり平順は、このソースの持ち味をベースに新しい味の料理をと考えたと言われています。現在でも長崎の人は「皿うどん」に長崎独特のソースをかけて食しています。”

同ミュージアムの「四海楼チャンポン年表」には「大正初年頃」に「皿うどん50銭」とも書かれている。これがこの年表で最初の「皿うどん」の記述で、「大正初年頃」にはすでに「皿うどん」が存在したことを伝えている。

四海楼 チャンポン年表

“1915年(大正4年) 大正初年頃、ちゃんぽん一杯10銭(皿うどん50銭)”

以上が「皿うどん」元祖の店が語る発祥の定説、いわば「皿うどん起源神話」だ。

  • ちゃんぽんから汁のない”太麺の皿うどん”が生まれた
  • さらに簡便化されて餡かけタイプの”細麺の皿うどん”が考案された
  • ソースの持ち味をベースに新しい味の料理をと考えた
  • 大正初年頃、皿うどん50銭

皿うどんを書籍などで取り上げる際は、ほぼ必ずこれらの説が紹介される。多くの人は「なるほど納得」と満足気にうなずくことだろう。

しかし、私はどうにも納得できない。

定説「炒麺(チャーメン)」への疑問点

私が最も腑に落ちないのが細麺の皿うどん、「炒麺(チャーメン)」の生まれた経緯だ。

「炒麺(チャーメン)」は「皿うどんを簡便に作れるように派生した」と書かれているが、本当だろうか? 陳平順氏が自身の口でそのように語ったのか?

そもそも「炒麺(チャーメン)」はいつごろ生まれたのか? 明治? 大正? 戦前? 戦後?

「いつの間にかこの炒麺も皿うどんと呼ばれ」というが、それもいつなのだ? 明治? 大正? 戦前? 戦後?

太麺の「皿うどん」にも時系列の疑問が沸く。「皿うどん」は「ちゃんぽんのバリエーションとして創った」というが、それもいつだ? 明治? 大正? 戦前? 戦後?

「チャンポン」から「皿うどん」、「皿うどん」から「炒麺(チャーメン)」という時系列は正しいのか? 本当に「炒麺(チャーメン)」より先に「皿うどん」が存在していたのか? 疑問符だらけだ。

他県の皿うどんは太麺ばかり

太麺の「皿うどん」には地域的な謎もある。あまり知られていないが、「皿うどん」という名前で太麺の料理を供している老舗中華料理店が、実は九州各地に点在しているのだ。以下はその一覧。カッコ内は創業年を示している。実際に食べ歩いてみたが、長崎を除く古い店の「皿うどん」は、太麺の方が主流と言っても過言ではない。

本来の「皿うどん」が太麺なのだから、老舗が「皿うどん」という名前で太麺を供するのは理解できる。しかし、これらの店は「皿うどん」イコール太麺で、パリパリ細麺を「皿うどん」と呼ぶことはない。

北九州市 中山楼(昭7, 1932)のメニュー

例えば「中山楼(昭7, 1932)」「紅蘭亭(昭9, 1934)」「門司倶楽部(昭28, 1953)」「山形屋ファミリーレストラン(昭32, 1957)」は揚げ麺に餡を掛けた料理を「皿うどん」ではなく「焼きそば」と呼んでいる。

熊本市 紅蘭亭(昭9, 1934)のメニュー

おそらく四海楼のように本来は「炒麺」と呼ばれていたのが「焼きそば」に転じたのだろう。東京有楽町にあった「桃園(昭25, 1950)」も同様だった。長崎以外の古い店では、太麺の「皿うどん」とパリパリ細麺の「焼きそば」を明確に区別して呼ぶ店が多いのだ。

東京有楽町 桃園(昭25, 1950)の商品サンプル

一方、長崎では四海楼を除くどの店でも、創業年に関わらずパリパリ細麺を「皿うどん」と呼んでいる。長崎とそれ以外で、なぜそんな違いが生じたのだろう?

長崎市 会楽園(昭2, 1927)のメニュー

もしかしたら各地へ太麺「皿うどん」が伝播したあと、長崎という地域限定で、細麺が「皿うどん」の主流になったのではないか? 細麺の「皿うどん」が主流になったのは明治や大正時代ではなく、意外と最近のできごとなのか?

カタ焼きそばとの関係は? ソースは独特?

疑問点は他にもある。他地域で食べられている「カタ焼きそば」と、パリパリ細麺の「皿うどん」は本当に別物なのか? 無関係ならどちらが先に生まれたのか? 互いに何か影響はあったのか?

「ソースの持ち味をベースに新しい味の料理を」という説も挙げているが、それは「皿うどん」独自の特徴なのか? ソースを掛けるのは長崎の「皿うどん」に限られた食べ方なのか?

「チャンポン」の歴史は研究者が大勢いるが、「皿うどん」「炒麺(チャーメン)」の考証はずっとなおざりにされてきた。ちょうど「ラーメン」に対する「焼きそば」のように軽視され続けてきた。いまこそ私は声を大にして、この皿うどん起源神話に異を唱えよう。

パリパリ細麺のように複雑に絡まりあう多くの疑問。それをこれから順番に解きほぐしていこう。熱々の餡のように粘り強く、熱意を以って。ただし甘さは控えめで。

(「第二章 時系列の検証その1、「皿うどん」が現れるまで」に続く)

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