Far East Cafe
カタ焼きそばが中国ではなくアメリカで生まれたという「カタ焼きそばアメリカ発祥説」について、明治27年にはアメリカ式中華料理のチャプスイが日本に伝来していたことを示す文献を前回の記事で紹介した。それとは別に「カタ焼きそばアメリカ発祥説」を私が確信するに至った理由がもう一つある。それは漢字表記だ。
日本ではカタ焼きそばを「炸麺」と書く場合が多い。しかし現代の中国語では、「炸麺(炸面)」は揚げパンやドーナツを指す単語だ。一方、中国本土の広東や香港ではカタ焼きそばを「煎麺(煎麵)」と表記する。日本の広東料理店ではまず目にしない書き方だ。
さらに上海では(内部が柔らかいケースも多いが)「両面黄(兩面黃)」、台湾では「広東炒麺(廣東炒麵)」と書く。その他の国でも「広東風の焼きそば」=「カントニーズ・チャウメン(Cantonese Chow Mein)」と呼ぶ場合が多い。インドに至っては「アメリカン・チョップシ(American Chop Suey)」と、そのままズバリの呼び方まである。もしカタ焼きそばが中国に元々存在する料理なら、料理名、特に漢字表記はある程度統一されていないとおかしい。それがここまでバラバラなのは、中国本土には無かった料理だったからとしか思えないのだ。
さて、それはそれとして、サンフランシスコのチャイナタウンからもう一軒、Far East Cafe を紹介しよう。1920年(大正9年)創業で、このエリアの中華料理店では現存する最古の老舗だ。漢字表記だと屋号は「康年海鮮酒家」。「康」は「庚」の異体字か誤表記かな。(※)たぶん創業した1920年が庚(かのえ)年なので命名したのだと思う。英語名と全く関連性が無いのが面白い。
【追記】
後日、中華料理に詳しい飯友のアイチー(愛吃)さんから、次のような情報をいただいた。さすがです!
1920年創業時の店名が「远东楼(遠東楼)」、まんまFar Eastだったそうです。
1999年、新店を開く際に「遠東楼」も吸収して「康年海鮮酒家」に改名したそう。英語名だけ残ったんですね。席数多く、要人も多く利用した、サンフランシスコ唐人街を代表するレストランだったようなので、英語名は変えない方がよいとの判断でしょうか。
「康年」は、文中で触れていらした開業年説に加え、料理名にある通り「コンビネーション」の音訳(康年;kang nian)説も考えられそうですね^^ ただ広東語だとhong nin なので、「コンビネーション」っぽさから若干離れてしまいます(笑)
訪れたのは前回の New Woey Loy Goey Restaurant と同じ日の夜のこと。ライトアップされたドラゴンゲートを潜ってチャイナタウンへと足を踏み入れる。Far East Cafe の店内はかなり広かった。フロアにはテーブルが数十卓並び、ディナーを楽しむ客たちで賑わっていた。内装は品のあるゴージャスさ。いかにも老舗という趣きだ。
あらかじめ公式サイトやYelpで確認済みだが、改めてメニューをチェック。うむ、やはりチャプスイがメニューに無い。創業した1920年ごろはチャプスイ・レストランがアメリカ中で大流行していた時期なので、この店でも恐らく当初は提供していたのだろうが、本物志向の動きに伴ってなくなってしまったものと思われる。ま、想像にすぎないのだが。
注文したのはコンビネーション焼きそば(康年炒麺/Combination Chow Mein/$11.50)と青島ビール($6.00)。ここでうっかりして揚げ麺の指定を忘れてしまった。New Woey Loy Goey Restaurant と同じく、1ドル増しで揚げ麺(Hong Kong Style Pan Fried Noodle)を指定できるのだが、カタ焼きそばではなく炒めた焼きそばがでてきてしまった。この場面、なんか既視感あるなーと思ったら長崎の四海楼だ。ちゃんぽんの元祖の店で「皿うどん」を注文したらチャンポン麺を炒めた品がでてきたっけ。なんか丸被りのエピソードだな。
しかしなぜ、カタ焼きそばが「香港式(Hong Kong Style)」なのだろう。今の香港で炒麵を注文したら十中八九、「醤油焼きそば(豉油皇炒麵)」が出てくる。そもそもアメリカでも「広東風焼きそば(Cantonese Chow Mein)」と呼んでいたはずなのだが。青島ビールを飲みつつ考えてみた。
これは想像だが、広東風焼きそば(Cantonese Chow Mein)が広東に存在しないことがアメリカで知れ渡り、呼び方を「香港式(Hong Kong Style)」に変えたのではないだろうか。さらに豉油皇炒麵が香港で普及したのは、広東風焼きそば(Cantonese Chow Mein)が世界に広まるより後だったのかも知れない。豉油皇炒麵は、香港では「事頭婆炒麵」=「英国女王の焼きそば」とも呼ばれているらしい。エリザベス2世が女王に即位したのは1952年なので、豉油皇炒麵もその前後に生まれた可能性がある。日本でソース焼きそばが広まった時期とも重なるから、なにか影響しあったのかなーなんて想像も膨らむ。
コンビネーション焼きそば(康年炒麺/Combination Chow Mein)は具沢山の炒めそばだった。麺はごわっとした食感の中太蒸し麺。麺が短いのはフォークでも食べやすくするためだろう。ロンドンの焼きそばもそうだった。具は鶏肉・チャーシュー・エビ・イカ・貝柱、モヤシ・ネギ・キャベツ・人参・ネギ・セロリ。とても具沢山で盛り沢山の焼きそばだ。
味付けは醤油(生抽)とたまり醤油(老抽)がベースで、割と甘めの味付けだ。食材の旨味も上手に活かしていて、とても美味しい。ただし、料理としての意外さや驚きは少ない。中国人も「ああ、炒麵だね」と納得するはずのChow Meinだ。強いてアメリカらしさを挙げるなら、具のセロリか。アメリカ中華の定番の食材だ。アメリカの西海岸ではこのスタイルがスタンダードらしいが、東海岸のChow Meinはカタ焼きそばが主流で、さらにちょっと変わったスタイルのもあるとか。いつか確かめに行かなくては。
会計の伝票と一緒にアメリカ中華ではお馴染みのフォーチュンクッキーも出てきた。中町素子さんの書かれた『日系チャプスイレストランにおけるフォーチュンクッキーの受容』という論文に詳しく書かれているが、このフォーチュンクッキーを考案したのが日系移民という史実も、だいぶ知られるようになってきた。
前回の記事でゴールドラッシュを期に中国からの移民が増え続けたことに触れたが、その現象に危惧を覚えた合衆国政府は、1882年(明治15年)に中国人排斥法を発令した。1906年のサンフランシスコ大地震で移民の記録が失われて、規制はかなり穴だらけになったのだが、公的には中国からの新しい移民の入国は禁止され、1943年12月に同法が廃止されるまでその状況は続く。その間、中国人に代わって日本人がその立場を占めた。1917年以降、全米各地でチャプスイ・レストランを開業して大流行をもたらしたのは日系移民が主体だった。その際に日本の辻占煎餅をフォーチュンクッキーとして提供し、アメリカの中華料理店の定番となった。ただし、1924年に排日移民法が制定されて状況は大きく変わり、終戦までの日系移民の苦難の歴史が始まるのだが……
一方、中国人排斥法でアメリカを追われた華僑たちは、アメリカ以外の世界各地へ渡航した。その際にアメリカで生まれたチャプスイを、カタ焼きそばという食べ方と共に渡航先へ持ち込んだと考えると、冒頭で述べた漢字表記の揺れも納得できる。横浜中華街、当時の南京町もその渡航先のひとつで、1895年(明治28年)の日清戦争終結、1899年(明治32年)の外国人居留地の廃止、さらに1923年(大正12年)の関東大震災を経て南京町の華僑は増え続けた。そしてアメリカで生まれたカタ焼きそばは、極東(Far East)で「炸麺」と名前を変えて定着していったのだ。
お会計を済ませて店を退出。「香港式(Hong Kong Style)」を注文し損ねたが、西海岸でのスタンダードなスタイルのChow Meinを食べられたので良しとしておこう。フォーチュンクッキーのお告げも良いこと書いてあったしね。焼きそばの麺のように複雑に絡み合った謎を解きほぐすの、ほんと楽しいなあ。
店舗情報 | 住所: 631 Grant Avenue, San Francisco, CA 94108 TEL: +1 (415) 982-3245 営業時間: 11:30~22:00 定休日: 無休 → ホームページ |
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主なメニュー | 康年炒麺(Combination Chow Mein) $11.50 港式煎麵(Hong Kong Style Pan Fried Noodle) add $1.00 同樂什碎(Tung Lok Special Chop Suey) $10.50 |
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