【コラム】支那料理屋のヤキソバ考(後編)

お待たせしました、「【コラム】支那料理屋のヤキソバ考(前編)」の続きです。なぜか前回より長くなっちゃいました。 「後編はもっと短いはず」って言ったの、誰ですかね? 前回を未読の方はそちらを先にお読みください。


前編で述べた通り、明治時代から戦前に掛けて東京近郊で創業した支那料理屋は広東料理が主流で、提供していた焼きそばは「硬・柔」を選べるあんかけスタイルだった。しかし中華料理は広東だけではなく、焼きそばもあんかけだけではない。

現在、中華料理店を訪れると、混ぜ炒めたタイプの焼きそばがごく当たり前にメニューに載っている。店のルーツや専門に関係なく、「上海風焼きそば」という名前で提供されていることが多い。後編では、まずその「上海風焼きそば」について検証してみよう。

■上海には存在しない「上海風焼きそば」

日本の中華料理店で「上海」の地名を冠されて提供される焼きそばは、次の3タイプに分けられる。

萬来亭 上海焼きそば

1つは現地・上海で食べられている極太麺の醤油焼きそば、「上海炒麺(上海炒面)」だ。麺はうどん並みに太く、具は豚肉・青菜・干し椎茸と構成要素はごくシンプル。「老抽」という中国のたまり醤油で甘辛く味付けされていて、色は濃い。現地の上海で炒麺といえばこのタイプだが、日本では横浜中華街の萬来亭など限られた店でしか食べることが出来ない。

一番飯店 特製上海焼きそば

2つめは焼いた麺に肉や野菜のうま煮を掛けた、上海風あんかけ焼きそば。しかし、あんかけ=広東風という印象の方が強いのか一般的ではなく、高田馬場・一番飯店など事例は限られている。前編で蘇州菜の「両面黄」を紹介したが、それがルーツというわけでは無いようだ。このタイプについては後述する。

維新號 上海風焼きそば

最後、3つめは細麺と具を混ぜ炒めた「上海風焼きそば」。店によって呼び方は多少異なるが、「上海”風”」と呼ばれることが多いので、本稿ではとりあえずそう呼んでおこう。「上海風焼きそば」は次のような特徴を持つ。もちろん中には例外もあるが、総じて柔らかい麺の炒めそばだ。

・細麺や中細の中華麺を使った炒めそば
・味付けは醤油やオイスターソース、中には塩味もある
・色は薄茶色、現地の「上海炒麺」ほど濃くはない
・具は細切りにした豚肉と野菜、海鮮も使う

前述の通り、現地の「上海炒麺」とは全く異なるのに、日本の中華料理店ではこれが「上海風焼きそば」として定着している。上海には存在しない「上海風焼きそば」。いったい、いつどこで生まれたのだろう?

■上海焼きそばを提供する老舗は全て同じルーツ

実は数年前に「上海風焼きそば」のルーツを探ろうと、手がかりになりそうな店を十数軒食べ歩いた。次の一覧は、「上海風焼きそば」を提供する現存店のうち、なるべく古い店を創業年の順に並べたものだ。なお、横浜中華街の萬来亭は本場スタイルの「上海炒麺」なのでここでは除外してある。

維新號(明32)
揚子江菜館(明39)
漢陽楼(明44)
新世界菜館(昭18)
・源来軒(昭21) (現・源来酒家)

これらの店には共通点がある。いずれも明治から終戦前後に掛けて神田神保町で創業した店で、創業者は全て同郷。上海から直線距離で150km南にある港町、浙江省「寧波(宁波/ニンポー)」の出身者なのだ。

■チャイナタウンだった神田神保町

今でもその名残はあるが、明治から昭和初期に掛けての神田神保町は、中国大陸からの留学生が多く住んでいた。神田の歴史・文化を研究している神田学会が、『神保町・中華街物語』という記事を公開しているので引用しよう。

1898年(明治31)、清朝の光緒帝らは、政府を立て直すためには日本の明治維新を手本にするのがよいと考え、日本や西洋の学問を学ぶために現在の北京大学の前身である京師(ケイシ)大学堂を創立、日本への留学を奨励しました。1902年(明治35)、講道館の創始者である嘉納治五郎は、中国人留学生のために弘文学院を創設。1904年(明治37)には、日本への留学生が一千人に達し、最終的には七千人もの留学生を受け入れたそうです。そして明治の後期には、他学校を含め五万人もの留学生が日本で学んでいたといいます。

また『東京人・2011年11月号(特集・チャイナタウン神田神保町)』によれば、広東出身者が中心だった横浜に比べ、神保町は山東や寧波(ニンポー)からの留学生が多かったらしい。彼ら相手に大陸の郷土料理を出す店も現れた。前述した一覧の店がそれだ。各店を簡単に紹介しておこう。

維新號 銀座本店のメニューより

維新號は現在銀座に本店を構えているが、もともとは神田今川小路で留学生相手の「故郷飯店」として明治32年に創業した。大正中期に日本人相手の「維新號」へと方針転換し、戦後の昭和22年に銀座へ移転したと公式サイトでは紹介されている。中華饅頭が人気となり、都内で多店舗を展開している。

揚子江菜館

揚子江菜館は神保町に現存する中華料理店で最も古い。明治39年に西神田で創業したが、それ以前から「支那そば」という店名で営業をしていたようだ。四代目がインタビューで述べられている通り、創業者は「寧波華僑総会」と「神田中華組合」を創立し、神保町の中華料理店の中心的役割を担った。冷やし中華発祥の店として取り上げられることも多い。

漢陽楼 店内の掲示板より

漢陽楼は明治44年創業。四代目のお話によると最初は神保町交差点付近にあり、その後4~5回移転したらしい。孫文や周恩来に所縁のある店として、日中台三カ国の外交にも一役買っている存在だ。現在のレギュラーメニューには「硬・柔」焼きそばしか載っていないが、コースには上海風焼きそばがあり、単品注文でも快く作っていただけた。

新世界菜館はだいぶ時代が下って昭和18年の創業。当初は専大前交差点のみずほ銀行の位置だったが、終戦後の昭和21年に現在の場所へ移転したという。現社長の傅健興(ふう・けんこう)氏は「寧波華僑総会」の現会長も勤めていて、神保町の華僑の歴史を研究されている。先ほど引用した『神保町・中華街物語』も傅社長が執筆された文章だ。以前、神田学会の集まりで一度聴講した際、氏にご挨拶をさせていただいたことがある。

源来軒は戦後間もない昭和21年の創業。こちらも創業時は専大前交差点のみずほ銀行の位置にあったが、その後、裏路地に移転。源来軒自体は2014年に閉店したが、息子さんが靖国通り沿いで営む源来酒家は今も繁盛店だ。麻婆麺が一番人気だが、源来軒譲りの上海風焼きそばや寧波家庭料理も楽しめる。

以上、どの店も寧波をルーツとする中華料理店だ。神保町周辺には他にも寧波出身者の店があるし、かつてあったことだろう。日本の食文化に与えてきた影響も大きく、日清戦争・日中戦争・国共内戦などの困難の中を、あえて東京・神保町の地で華僑として生きることを選択してきた方々である。日本でもっと注目されても良いのではと思う。

■「上海料理」というジャンルの謎

ところで全く話は逸れるが、「上海料理」はお好きだろうか?

上海料理と言えば上海蟹(醉蟹)や豚の角煮(東坡肉)、小龍包や焼き小籠包(生煎)などが定番だ。魚介類や醤油を使った味付けが特徴とされ、日本では広東料理に次ぐポピュラーな中華料理のジャンルといえよう。しかし実は中国本土へ行くと「上海料理」は日本ほどの人気はない。というか、ほとんど認知されていない。

日本では「広東」「上海」「北京」「四川」を「四大中華料理」と呼ぶのが一般的だ。一方、中華本土では全く異なる「八大菜系」という分類が用いられている。その「八大菜系」に「広東料理(粤菜)」や「四川料理(川菜)」はあるが「上海料理」は含まれておらず、「江蘇料理(蘇菜)」というジャンルの下位分類にすぎない。

1920年代 上海の様子

そもそも上海は、南京条約後に開港され租界を中心に形成された比較的新しい街である。知名度は高いが、たかだか200年程度の歴史しかなく、中国の他の都市に比べると文化的な歴史は浅い。そのため中国の料理界で「上海料理」というジャンルは、ほとんど顧みられることがない。

その「上海料理」というジャンルがなぜ日本では有名なのか。そこで登場するのが、前述した寧波出身者の老舗中華料理店だ。

■「上海料理」「上海風焼きそば」を定着させたのは……

前述した寧波出身者の老舗中華料理店は「上海料理」に分類される店が多い。

新世界菜館は上海蟹を看板料理に掲げ、上海料理店を名乗っている。揚子江菜館も上海式焼きそばや上海小龍包を名物とし、屋号の「揚子江」も上海を想起させる。維新號も銀座新館の紹介文では「上海料理をベースに」にという説明がなされている。また、新宿店でも「上海料理の逸品」を謳っている。

寧波から上海まで直線距離で約150km。上海料理は寧波料理の影響も大きいため、料理に共通要素も多いことは確かだ。しかし距離的に近いとはいえ別の町だし、寧波の方が歴史は断然古い。彼らはなぜ寧波料理ではなく、わざわざ上海料理を標榜したのだろう。

ここからは想像になる。

戦前の東京近郊で支那料理と言えば、広東料理が主流だった。それに対して八大菜系の「浙江料理(浙菜)」に属す寧波料理は、全く異なる料理体系だ。同じ支那料理でも別物だと日本人でもわかるようにしたい。ただ寧波という地名も浙江料理という分類も、日本人にはあまりなじみがない。

1920年代 上海の様子

一方で上海は欧米各国が租界を形成する世界注目のスポットだった。歴史が浅いとはいえ、先進国の最新文化が流入する街でもあり、当時の日本でもネームバリューが高かった。そこで寧波の出身者たちは距離も料理の味も比較的近く、知名度も高い「上海料理」を看板に掲げるようになったのではないだろうか。そして大陸ではマイナーな「上海料理」というジャンルが、日本では彼らによってメジャーな存在となる。

「上海風焼きそば」も同様の過程を経たように思う。寧波出身者の料理店で提供していた焼きそばは、基本的に寧波スタイルの混ぜ炒めそばだ。しかし当時の支那料理屋で焼きそばと言えばあんかけタイプしか認知されていない。同じ炒麺、焼きそばでも別物。それを日本人に伝えるために「上海風焼きそば」と名付け、それが定着した。

以上が、「上海風焼きそば」の発祥に関する私なりの仮説だ。神保町と各店の歴史や上海料理というジャンルの普及ぶりを考えると、ソース焼きそばの成立した大正時代に「上海風焼きそば」が提供されていたことも、大いにありうると思う。

中華ダイニング 高格 寧波炒面

なお、仮説の証明を兼ねて、寧波出身者が営む浙江料理店で「寧波炒麺(寧波風焼きそば)」を注文したことがある。「現地そのままの味で」とわざわざリクエストして出てきた品は、見慣れた「上海風焼きそば」そのものだった。近年来日した寧波人で神保町の影響は受けていないのは確認済み。持論への自信を深めた。

■柔らかい麺ならなんでも上海焼きそば?

ここで2番めのタイプ、上海風あんかけ焼きそばにも触れておこう。

藤九郎 メニュー

日本橋高島屋の裏手にあった中華こんどう軒(大5)は広東料理がベースだが、ランチタイムには「上海炒麺(軟らかい焼きそば)」というメニューを提供していた。こんどう軒は2014年に閉店し、神田小川町に移転して『藤九郎』という屋号に変わった。そちらでいただいた「軟らかい焼きそば」はトロミのついたあんかけ焼きそばだった。味は変わっていないと仰っていたので、こんどう軒時代の「上海炒麺(軟らかい焼きそば)」もあんかけ焼きそばと考えて良さそうだ。

一番飯店(昭27) メニュー

高田馬場・一番飯店(昭27)も、あんかけの「上海焼きそば」がある店のひとつだ。と同時に揚げ麺を使ったあんかけの「広東焼きそば」もメニューに載っている。疑問に思い、とある取材で訪れた際にその違いを店主に尋ねてみた。すると「柔らかい麺は上海焼きそば、硬い揚げ麺は広東焼きそば。修業先の揚子江菜館でそのように教わった」との答え。そう、前述した一覧に含まれる神保町の揚子江菜館(明39)だ。まさかそこへ戻るとは!

揚子江菜館(明39) メニュー

池波正太郎も良く食べたという揚子江菜館(明39)の「上海式肉焼きそば」は、柔らかい麺を使っているが、実は混ぜ炒めてはいない。細切り豚肉とモヤシを炒めて別に焼いた柔かい麺に乗せた例外的なスタイルなのだ。乗せる具にトロミはついていないが、お店の方の話だと揚げ麺も可能で、その場合は具にトロミが付くという。一番飯店で聞いた話からすると、揚子江菜館では後者を「広東風」「広東式」と位置づけているのだろう。

揚子江菜館(明39) 上海式肉焼きそば

つまりあんかけか混ぜ炒めかに関わらず、「柔らかい麺は上海焼きそば」というシンプルな定義が存在し、2番めのタイプはそれに当たるわけだ。恐らく揚子江菜館の長い歴史の中で、シェフの誰かがそのように定義して広まったのではないかと思うのだが、定かではない。

それにしても広東料理とみなしていた軟らかいあんかけ焼きそばまで「上海焼きそば」と呼ぶ場合があるとなると実にややこしい。あくまでもレアケースと思われるので本稿ではここで留めておく。

■中国の炒麺は軟らか麺の混ぜ炒めが標準

次に視点を神保町から東アジアに広げてみよう。中国大陸で軟らかい混ぜ炒めの「炒麺」を食べている地域は、寧波や上海や揚州だけではない。むしろ広東料理とされるあんかけスタイルの「炒麺」こそレアケースで、中国で「炒麺」といえば混ぜ炒めがほとんどなのだ。茹で麺ならまだしも「炒麺」のあんかけはごく限られたで地域でしか食べられていない。

明治28年(1895年)、下関条約によって日本に割譲された台湾。昭和7年(1932年)に関東軍が後ろ盾となって建国された満州。それら日本と深い関わりを持つ地域の「炒麺」も混ぜ炒めだ。

台湾の焼きそばレシピ本

私が台湾で購入した複数のレシピ本では、中細麺を使った醤油味の混ぜ炒め焼きそばが台湾式(台式)として紹介されている。台湾でおなじみの「炒米粉」=「焼きビーフン」も混ぜ炒めである。

中華街 東北人家 メニュー

また満州など中国の東北地域では、うどんのような柔らかく太い麺を使った「炒麺」が多い。写真は横浜中華街にある東北料理店、東北人家のメニューだ。明治時代の中頃から昭和20年の終戦まで、台湾や満州の混ぜ炒めた「炒麺」が、日本に入って来ない方が不思議と言ってよい。

■明治36年・第5回内国勧業博覧会の台湾料理店

実際に台湾料理が日本に流入した一例として、明治36年(1903年)に大阪の天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会を紹介しよう。

第5回内国勧業博覧会 会場地図

内国勧業博覧会は富国強兵を目指す明治政府が、国内の輸出産業の増進を目的に企画したイベントだ。本来は万国博覧会を開催したいが、当時はまだ国力が足りず、内国勧業博覧会が第5回まで開催された。初代通天閣が天王寺に建造されたのはこの時である。

第5回内国勧業博覧会 台湾館
(上記画像は国会図書館サイト「博覧会-近代技術の展示場」より許可を得て転載)

第5回内国勧業博覧会では、明治28年から日本が統治するようになった新領土、台湾のパビリオン「台湾館」が新設され、その裏手には台湾料理店も出店した。

■「日本本土ではまだ見たことのない調理法の麺類」

その台湾料理店、富士見樓支店のチラシの冒頭は、こんな宣伝文句で始まっている。

富士見樓支店 チラシ

抑(そ)も此の臺灣料理と云うは、彼の支那料理とは大に趣を異にせるものにて、日本人の口にも能く適ひ……

当時一般的だった支那料理(恐らく広東料理)に比べ、台湾料理が日本人の味覚に合う点を強調した上で、結び近くではこう述べている。

富士見樓支店 チラシ拡大

其他(そのた)麵類料理一式は、從來内地にては、未だ見ざるところの調理法にして……

「麺類は日本本土ではまだ見たことのない調理法」だという。チラシの裏には具体的なメニューが載っている。

富士見樓支店 麺類 品書き

メニューの筆頭が麺類だ。その部分を拡大して抜き書きしてみよう。

富士見樓支店 麺類 品書き

 ○麵類
焼三絲米粉(シヨーサムシイビイフン) 拾五錢
・三絲米粉(サムシイビイフン) 八錢
焼鳩絲米粉(シヨーアーシイビイフン) 拾五錢
・鳩絲米粉(アーシイビイフン) 拾錢
・粉炒虾米粉(フンツアーヘエビイフン) 拾五錢

見ての通り米粉(ビーフン)が並ぶなかに、「焼きビーフン」も含まれている。奇しくも同年の明治36年に刊行された『横浜繁昌記』に「各色炒麺(やきそば)」という記述があるが、それに匹敵する貴重な記録だ。

中国では麺は小麦粉を原料とした食品全般を指し、米を原料とするビーフンはあまり麺とは呼ばない。しかし当時の日本ではビーフンは麺類と見做されていたようだ。具体的な料理の写真や紹介文はないが、「日本本土ではまだ見たことのない調理法の麺類」というからには、現代の焼きビーフンと同じく、混ぜ炒めと考えて良さそうだ。

現在の焼きビーフン(西荻窪・珍味亭)

第5回内国勧業博覧会は東京ではなく大阪で開催されたイベントだが、会期は153日間と長かった。当時の日本人口が2300万人という状況で、500万人以上が来場したという。もちろん東京から遠路訪れた人も多かったのは間違いない。

中には、これまでの支那料理とは異なる炒め麺に商機を見出し、東京で同様の品を出そうと考える商売人もいたことだろう。明治36年の大阪の焼きビーフンが、その後の浅草周辺でのソース焼きそば誕生に、もしかしたら影響を与えたかも知れない。

■古川ロッパが食べた「炒麺」とは

さて、そろそろ締めだ。冒頭の問いに戻ろう。古川ロッパが食したそれは、どのような「やきそば」だったのか。

古川ロッパは、「うどんのお化け」というエッセイで次のような文章を残している。私のブログで、戦前から焼きうどんがあった証言として何度か紹介したことがある箇所だ。

戦時、代用食として、焼うどんなどというものを、食わされた。然し、焼うどんてものを、僕が、生れて初めて食ったのは、関西で、それは戦争はるか以前のことだった。うどんと言っても、たしかヒモカワだった。挽肉を掛けて、炒麺のように、軽く炒めたものである。これはこれで、お値段から言って、決して悪い食いものではなかった。今でも、焼うどんを食わせる店は、東京にもあるが、僕は、汁の中へ浸っているのより、此の方を愛す。

「戦争はるか以前」に食べた焼きうどんの譬えとして、「炒麺のように、軽く炒めたもの」という表現が出てくる。この文章が書かれたのは戦後だが、文脈を素直にたどると「軽く炒めた炒麺」を想起したのは焼きうどんを食べたその時、「戦争はるか以前」のことだったと読める。

また冒頭で引用した日記のような「やきそば」という呼称ではなく、わざわざ「炒麺」と書いている。ソース焼きそばの類ではなく支那料理の「炒麺」なのは確実だ。しかも特別な存在ではない、ありふれた当たり前の料理のように触れている。決して断定はできないが、古川ロッパが戦争はるか以前に、支那料理屋で混ぜ炒めた「炒麺」を日常的に味わっていた可能性がぐっと高まる。

そして思い出して欲しいのが『古川ロッパ昭和日記』の次の記述だ。

昭和九年七月四日(水曜)
上海亭で一人でやきそばなど食ひ、座へ帰る。

彼の日記に何度も登場する浅草の支那料理屋、上海亭。当時、銀座尾張町(現在の銀座4丁目交差点あたり)に上海亭という支那料理屋があったが、その系列店だろうか。

銀座尾張町 上海亭

上海亭が寧波出身者の店なのかは全く不明だが、「上海」を名乗るからには「やきそば」は混ぜ炒めだったに違いない。古川ロッパが「戦争はるか以前」に日常的に食べていたであろう「軽く炒めた炒麺」とは、この上海亭の焼きそばだったのではないだろうか。確証はないが、ここまでの考察を経てみれば答えは集約されるように思うのだ。

以上、これまでほとんど省みられることのなかった支那料理屋の焼きそばについて、私なりに考察してみた。先行研究も史料も限られているため、断言できないことばかりで隔靴掻痒の感は否めないのだが、この文章が後学の一助になれば幸甚である。

【2018.04.09追記】
浅草の上海亭に関する資料を2つ見つけた。具体的にどんな料理が出されていたかは不明だが紹介しておこう。

ひとつは『浅草底流記』(昭和5)。

浅草底流記(昭和5)

支那料理「五十番」の猛烈な繁昌振りはどうだ。安くてうまい。こゝは何でも分量が多い。二階の座敷が好きだつたが、どうも此頃は扱ひが悪くなつた。ちとお値段は張るが、その點では筋向ひの「上海亭」の方がよろしい。
「來々軒」は昔の繁盛をしのぶよすがもない。流行の犠牲、氣の毒である。

もう一つは『浅草経済学』(昭和8)。

浅草経済学(昭和8)

▽淺草で高級を標榜する上海亭
淺草の支那料理中で、高級を標榜し、自ら第一流を以て任ずる店は、震災直後に出來た上海亭である。殊に開業當時は、名實共に高級で、銀座に於ける上海亭と、殆どそんしょくがない程、高級であり、本式のものであつた。(以下略)

これらの資料によると、上海亭は震災直後に開業した高級・本物志向の支那料理店で、やはり銀座にあった上海亭の系列のようだ。場所は新仲見世通りで同じ支那料理店・五十番の筋向かいに位置という。

そのうちどこかから当時の料理がどんなだったか、分かる資料が発掘されることを期待したい。

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『【コラム】支那料理屋のヤキソバ考(後編)』に2件のコメントがあります。

  1. 摂津国人 says:

     お邪魔します。近代食文化研究会さんからご紹介をいただきました。
       
     「チャプスイ」についてお調べだそうですが、「中華文人食物語 (集英社新書) 南條竹則(英文学者)」の「チャプスイの話」に考証が有ります。
     李鴻章来米以前からアメリカにはあったとされ、原型は広東・台山元祖の野菜炒めの大衆食の雑砕と雑燴の2種類だったとします。
     もともとからご飯や麺に掛けるものであったようで、アメリカでは会飯(かけ御飯)や麺の物もチャプスイと云うとされ、内臓肉なども用いられます。
       
     自分が調べた範囲では日本での「八宝菜」は大正前期までは別の様々な料理に付けられていた多くの素材を用いた煮物や盛り合わせ、時には漬物を指す程度の意味だったようですが大正後半にはチャプスイと同一視されはじめていたようです。現在の「八宝菜」に近いあんかけになります。日本人好みにアレンジされたものだといえます。
     ただし昭和初めにはアメリカ系中華料理店「「アメリカン・チャプスイ・ハウス・レストラン アスター」があったとされ、(現在の銀座アスター)日本中華「八宝菜」の成立は複雑だといえます。
      
     ちなみに日本の文献での「八宝菜」は知っている限り「和漢精進料理抄 元禄10年」にあるものが一番古いものですがチャプスイとは異なります。
        
     それと「上海料理」についてですが中国政府により1950年代に編纂された「中国名菜譜」の日本語訳(中山時子1974)によると、「中国名菜譜」は全11集ありそのうち3集が北京、2集が広東料理にあてられていて1集が「辺境数州」の他5集のうち1集が上海料理にあてられています。
     その意味では重要度としては7位以内にあると「中国名菜譜」では考えられているとみてもよいかもしれません。

  2. SaltyDog says:

    摂津国人様、コメントありがとうございます!
    貴サイト、以前から時折参考にさせていただいておりました。

    チャプスイについては、手元にある「銀座アスター物語」でも摂津国人様と同様のことが語られていますね。アスターと同年の昭和元年に創業した横浜中華街の「一楽」という店では、現在のメニューでも「五目あんかけ焼きそば」が「Chop-suey Fried Noodles」、「五目うま煮かけご飯」が「Chop-suey On Rice」と英語表記されているんですよ。創業当時からその表記だったかは不明ですが、複数のルートで流入していたのかも知れませんね。
    https://tabelog.com/imgview/original?id=r0826726088834

    それと「中国名菜譜」についても調べてみました。1958年から60年代に掛けて順次刊行されたようですね。

    「中国名菜谱」商业部饮食管理局
    第一辑 北京特殊風味
    第二辑 北京名菜点之一
    第三辑 北京名菜点之二
    第四辑 広东名菜点之一
    第五辑 広东名菜点之二
    第六辑 山东名菜点
    第七辑 四川名菜点
    第八辑 苏,浙名菜点
    第九辑 上海名菜
    第十辑 福建、江西、安徽名菜点
    第十一辑 云南、贵州、广西名菜点
    第十二辑 湖南、湖北名菜点

    北京や広東は複数あり、上海は9冊目。江苏菜・浙江菜よりは後ですが、「福建、江西、安徽」より前で、一冊丸々充てられているのが意外でした。参考になりました!

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