【コラム】支那料理屋のヤキソバ考(前編)

唐突ですけど、コラムです。近代食文化研究会さんとのTwitterでのやりとりに触発されたもので、Twitterで連続ツイートするつもりで書きはじめました。しかしあまりに長文になり、あちこち参照するリンクも貼りたいのでブログの記事にしてみました。こういうの考え始めると止まらないんですよね。後編はこちら


大正から戦後に掛けて活躍した古川ロッパ(筆名:緑波)という喜劇役者は、『古川ロッパ昭和日記』でたびたび「やきそば」に触れている。

昭和九年七月四日(水曜)
上海亭で一人でやきそばなど食ひ、座へ帰る。

昭和十一年六月十二日(金曜)
又井口の自動車で神田へ寄り、杏花楼でやきそば食って上野へ。

昭和十一年九月三十日(水曜)
山水楼のやきそばだけで腹をこしらへ、夜十時頃から「ハリキリボーイ」にかゝった。

屋号からするといずれも中華料理、当時は支那料理と呼ばれていた飲食店だ。最後の山水楼は日比谷にあった店で、龍淵という後継店が小淵沢にある。

ソース焼きそばが生まれたのは明治末期から大正時代に掛けて早ければ明治末期、遅くとも昭和初期のこと(2018.04.19 確証が持てないので訂正しました)。もちろん当時の支那料理屋には「やきそば」があった。少し時代が下るが、古川ロッパが食したそれは、どのような「やきそば」だったのか。これまでの食べ歩きや調査をもとに、私なりに考察してみた。

先に結論を述べよう。

東京近郊の支那料理屋の焼きそばの主流は「あんかけ焼きそば」で、硬い揚げ麺か柔らかい焼き麺を選択可能な店が多かった。ただし一部では柔らかい混ぜ焼きそばを提供していた。後者は「上海風焼きそば」とも呼ばれた。

今回はその結論の前半について説明する。

■現存店の多くは「硬・柔」選択可能なあんかけ焼きそば

当ブログの開設からこれまで、明治から昭和初期に掛けて東京近郊で創業した中華料理店や支店・暖簾分けの現存店を、可能な範囲で食べ歩いてきた。その多くは広東料理を謳っていて、焼きそばはあんかけ焼きそばをメインに提供している。しかもほとんどは硬い揚げ麺か柔らかい焼き麺かを選択可能だ。

巴家 (東京都千代田区)

以下に挙げる店は私が実際に食べ歩いた現存店で、「硬・柔」選択可能なあんかけ焼きそばを提供している例である。(カッコ内は創業年)

この中の3軒の大勝軒は人形町系と呼ばれる同系列だ。素直に考えれば、そのルーツである日本橋芳町にあった大勝軒総本店(明38)も「硬・柔」選択可能だったと思われる。また祐天寺・来々軒(昭8)のルーツで東京ラーメンの元祖と呼ばれている浅草・来々軒(明43)も同様に選択可能だった可能性が高い。

さらに私個人は未訪問だが横浜中華街の聘珍楼(明17)・萬珍樓(明25)、日本橋にあった中華こんどう軒(大5)も硬・柔を選択可能な店なのを確認済みだ。銀座アスターは当初アメリカ式中華料理を売りに開業したが、ほどなく本格中華料理店に路線転換し、現在に至っている。

日本橋大勝軒のメニュー

ちなみに大勝軒総本店(明38)では「揚州炒麺」という漢字表記に「ゴモクヤキソバ」という振り仮名を振って提供していた(参考)。戦後すぐの創業になるが横浜中華街・楽園(昭25)も同様の表記をしている。また文献にも散見できるので、当時は「揚州炒麺(ゴモクヤキソバ)」や「肉絲炒麺(ニクヤキソバ)」という漢字表記が定着していたと推測できる。この「揚州炒麺」については後で詳しく検証しよう。

■カタ焼きそばだけの店はレアケース

ところで近代食文化研究会さんの調査によると、当時出版された支那料理の調理本(複数)にはカタ焼きそばしか載っていない。(それも「揚州炒麺」という料理名だ)

実際に揚げ麺だけを提供している例も複数ある。例えば立川・福来軒(大1)は「創業以来の人気と味」と謳って「揚げ焼きそば」だけを提供している。また横浜・奇珍(大7)も揚げ麺しかない。また横浜中華街の海員閣(昭6)も「揚州炒麺(ゴモクカタヤキソバ)」ほか揚げ麺のみを提供している。

福来軒 (東京都立川市)

ただし数でいえば、これらの店はあくまでもレアケースである。当たり前だが揚げる前の麺を柔らかく焼き上げることは可能だし、麺をカリカリになるまで揚げるより、適度に焼く方が時間が掛からない。今も揚げ麺の場合は追加料金が必要な店すらある。

そしてカタ焼きそばしかなかったと考えにくい理由はそれだけに留まらない。そもそもカタ焼きそばは中国には存在しない料理で、当時大陸から連れてこられた中国料理人の多くは、カタ焼きそばを知らなかったはずなのだ。

■カタ焼きそばはアメリカ生まれ

時は1842年。日本は江戸時代、天保年間の頃。阿片戦争に敗北した清国は南京条約で香港島をイギリスに割譲し、さらに広東を含む5港が開港を迫られた。疲弊した清国と混乱する故郷を目の当たりにした広東人は、1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュに活路を求め、大挙して新天地アメリカへと旅立った。

チャプスイ・レストランの看板

その広東人を中心にした中国移民たちの間で誕生し、大流行したアメリカ中華料理が「チャプスイ(Chop Suey)」だ。チャプスイはいろんな野菜や肉を炒め煮し、コーンスターチなどでとろみをつけた料理で、日本で言う八宝菜に近い。サンフランシスコなどのチャイナタウンを中心に、チャプスイはライスや揚げ麺に掛けて提供された。

中国には「伊府麺」という揚げ麺がある。インスタント麺のルーツとも呼ばれ、水を使わずに全卵で打った全蛋麺を油で揚げた、保存性の高い麺だ。この「伊府麺」の発祥には諸説ある。その一つが清朝・乾隆帝の時代の文官、伊秉綬(いへいじゅ/1754~1815年)という人物。「伊」さんの「館(府)」で作られたため、「伊府麺」と名付けられた、それが定説とされている。

伊秉綬(いへいじゅ/1754~1815年)

「伊府麺」を揚げたパリパリの状態で供する調理法は中国にはない。必ずお湯で茹で戻して使う。「乾焼伊麺」という焼きそば的な調理法もあるが、これもやはり柔らかい状態だ。しかしアメリカは自由の国。食べ方だって自由だ。

乾焼伊麺

「伊府麺」は香港や広東で今でも人気で、当時アメリカに持ち込んだ広東人もいたに違いない。その硬いままの「伊府麺」にチャプスイを掛けて出せとリクエストした乱暴な客がいたのだろう。クリスピーな食感が受け、移民の中核である広東出身者にちなんで、「広東炒麺」(Cantonese Chow Mein)という料理名で普及した。これがカタ焼きそばの誕生である。

■南京町の支那料理は当初アメリカ経由でもたらされた

そのアメリカ式中華料理、チャプスイは、明治30年に発行された『社会百方面』という出版物に登場する。これによれば1894年(明27)、日清戦争が開戦する頃には既に「ちやぶちい(=チャプスイ)」が横浜の南京町(現在の中華街)に存在していたらしい。

1894年(明治27年)、既に横浜にチャプスイが!?

当時の南京町は中華街と言うより欧米各国の商人たちが主体だった。中国人も本国から直接来た人々ではなく、それら商人たちの通訳や使用人が主体で、もちろんアメリカからも来ていた。アメリカではこの数年前、1888年(明21)には印刷物にチャプスイが登場している。この頃にチャプスイが日本に持ち込まれていても不思議ではない。それが揚げた麺に掛けるスタイルだったかは不明だが、可能性としては高い。

そしてもちろん中国本土で暮らす一般の中国人はそんな経緯など知らない。広東人もだ。当初は米国滞在経験がある料理人ばかりだったかも知れないが、支那料理屋が増えればそうはいかない。中国大陸や台湾から連れてこられた料理人はカリカリに揚げた「広東炒麺」に戸惑ったことだろう。浅草橋・中華楼(大12)のようにカタ焼きそばの漢字表記を「炸麺」と書き分ける店まで現れる。たしかに字義としてはその方がしっくりくる。

炸麺

■「カタ焼きそば」イコール「揚州炒麺」?

ここまで読んだ方は、「日本では揚州炒麺と呼んでたのなら、中国の揚州にカタ焼きそばがあるのでは?」と思われるかも知れない。その説について検証してみよう。

江蘇省揚州市は揚げ麺と無関係ではない。「伊府麺」の発案者とされる伊秉綬は、広東省恵州と江蘇省揚州の知府を歴任した。そのため伊秉綬の着任地だった揚州も「伊府麺」発祥の候補地とされている。しかし前述の通り、カタ焼きそばのように硬い状態で提供する麺ではない。では「伊府麺」とは別なカタ焼きそばが揚州にあるのか?

中国本土の料理に詳しい酒徒さんのブログによると、上海にある揚州飯店では「揚州炒麺」という名前で揚げ麺のあんかけ焼きそばを提供している。「お、あるのか」と思われるかも知れないが、あくまでも場所は上海だ。現地の揚州ではない。

試しに中国の検索エンジン「百度(baidu.com)」で「扬州炒面」を画像検索しても前述の揚州飯店以外は混ぜ焼きそばしかヒットしない。私が調べた限りだが、現地、揚州市での事例は見つからなかった。「揚州炒麺」というカタ焼きそばが現地に古くから存在する食文化なのか、この時点で疑念が生じる。上海・揚州飯店の創業は戦後の1950年(昭25)だから、日本で修業した料理人が同店に「揚州炒麺」をもたらした可能性もあり得る。

ところで揚州市と同じ江蘇省に属する蘇州市には「両面黄(两面黄)」と呼ばれる伝統的な麺料理が存在する。麺に柔らかい部分を残して両面をカリカリ焼いた麺に、トロミのついた具をのせたあんかけ焼きそば風の麺料理で、カタ焼きそばのように完全に麺を揚げてしまう店もある。1949年の蘇州解放の頃に消失して一旦食文化が途絶えたが、近年、裕興記麺館という店が復活させ、『麺の中の王様、二面黄』というキャッチコピーで人気を得ているようだ。

江蘇料理(日本では上海料理と同一視される)を提供している店では、この「両面黄」表記であんかけ焼きそばやカタ焼きそばを提供する場合も多い。横浜中華街の揚州飯店(昭27)もその一つだ。前述した上海の揚州飯店とはもちろん別経営だろうが、「揚州」を屋号に持つ店が、あんかけ焼きそばを「揚州炒麺」ではなく「両面黄」という表記で提供している点は注目すべきだろう。

そして他にも「揚州炒麺」や「両面黄」がカタ焼きそばのルーツと考えにくい理由がある。料理名の漢字表記ゆれだ。

■漢字表記がバラバラなカタ焼きそば

仮に「揚州炒麺」や「両面黄」がカタ焼きそばのルーツなら、中国語文化圏ではその料理名で伝播するはずだ。しかし事実はそうではない。「揚州炒麺」は戦前の日本、「両面黄」は蘇州。どちらもごく限られた地域での呼び名に過ぎない。

前述の通り、アメリカではカタ焼きそばは「広東炒麺」(Cantonese Chow Mein)という名前で普及した。アメリカだけでなく華僑の多いアジアでもカタ焼きそばは広東由来の料理名が付いている。フィリピンでは「Pancit Canton」、マレーシアでは「Mie goreng kanton」、台湾でも「廣東炒麵」という呼び名だ。

廣東炒麺

日本でも南国酒家(昭36)を始め、「広東炒麺」と呼ぶ中華料理店はかなりの割合で存在する。呼称の広まり方を考慮すると、広東系の移民が前述の揚げ麺「伊府麺」をアメリカに持ち込み、それがカタ焼きそばに変化した可能性がさらに高まる。

広東炒麺・南国酒家

参考までに述べると、当の広東ではカタ焼きそばを「煎麵」と呼ぶのが一般的だ。中国本土の他地域では「脆麺」「脆炒麺」と呼ぶ地域もある。日本では前述の通り「炸麺」表記が普及して辞書にまで載っている。ただし現在の中国本土で「炸麺(炸面)」はドーナツや揚げパンを意味し、カタ焼きそばのつもりでも通じない。また、現在の日本の中華料理店では「五目焼きそば」の漢字表記は「什景炒麺(炸麺)」「什錦炒麺(炸麺)」というのが一般的である。

什景炒麺

このようにカタ焼きそばの呼び方・漢字表記は中国語圏でも統一されておらず全くバラバラだ。アメリカ大陸を原産地とする七面鳥の呼び方が各国でたらいまわしにされている、なんて笑い話を思い出す。ここまで漢字表記がゆれるのも、カタ焼きそばが中国に存在しなかった証拠といえよう。

「揚州炒麺」という料理名も正式なものではなく、あくまでも明治・大正期に日本へカタ焼きそばを伝えた料理人がたまたま使っていた呼び名でしかない。もしかしたら「炸麺」と同じように「広東炒麺なんて料理は広東にない」と思った広東出身の料理人が、勝手に創作した名前かも知れない。『もう一つの伊府麺ゆかりの地、揚州の料理だろう』とか『麺を揚げる「揚式」だから「揚州炒麺」と呼んでおこう』くらいの適当さで。

■「硬麺」があるなら、「柔麺」も選べたはず

カタ焼きそばの論考が長くなってしまった。当時の中国人シェフ自身がカタ焼きそばに馴染みがない。また、カタ焼きそばの方が手間が掛かる。それらの点を考慮すると、料理人としては「柔らかい」選択肢を用意するのが自然な流れだ。「硬」があるなら「柔」も選べたはずである。

私が食べ歩きした店はもちろん全て代替わりしているし、味やメニュー構成も変化していることだろう。ただ、中華料理のあんかけ焼きそばというジャンルは、幸か不幸か、これまで大きな流行が皆無だった。汁麺や四川料理のような戦後の影響は考えづらく、これだけ数が揃うと、さすがに「硬・柔」選べる店が一般的だったと捉えるのが妥当だと思う。

以上、戦前の東京近郊の支那料理屋ではあんかけ焼きそばが主流で、硬い麺か柔らかい麺か選べる店が一般的だった、というのがここまでの論旨だ。では混ぜ炒めた焼きそばはあったのか? それについては後編にて。

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